「時代閉塞の現状」を理解するためには、この文章で批評の対象となっている「自己主張の思想としての自然主義」という文章を読まないとならないということがわかった。

このふたつを対にして理解して、なおかつ当時の時代背景を知ることが必要のようだ。

幸いなことに、こちらの文章も忍者ツールズというサイトで読むことができるので、まずはこちらから始めることとする。

魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」(明治43年8月9日 朝日新聞)

見出しがないので私が勝手につける。

1.「自然主義」は自己主張ではないか

「自然主義」はある種の決定論的傾向を持つ。本来、自己主張とは対極にある。

しかし最近いわれる「自然主義」はむしろ一種の自己主張ともとれなくはない。

2.近代思潮は反抗精神を持っている

すべからく近代思潮は反抗精神を持っている。それは自己拡充の精神の消極的表現と捉えられる。

3.近代思潮における自然主義

自然主義はそもそもは科学的決定論であるが、それが近代思潮の中に位置づけられた時には、2つの方向で表現される。

ある時は自暴的な意気地のない泣き言や愚痴になる。ある時はそういうだらしない自己を居丈高に主張することもある。

(どうもこの辺の論理構築はよく分からない。証明すべきことを前提に議論を組み立てている傾向がある)

4.現実的精神と反抗の精神

超現実的な中世に対して立ち向かったのは「現実的な精神」であった。

現実的な精神は、ふつうは“立ち向かう”などというバカな真似はしないのだが、そのときに限って「反抗的精神」と共同した。

ルネッサンスの精神と宗教改革の勢力は、共同の敵たる教会という権威に挑戦した。相容れざる2つの運動が一時的に連合したのである。

(着想は面白いが、やや雑駁の感を免れ得ない)

5.近代社会における現実的精神と反抗精神

現実的な世界が実現して、予想を超えて進歩してきた。2つの精神も発展し、それにしたがって互いに相容れざる矛盾を生ずるようになっている。

にも関わらず、今日においても、両者は離れることを好まないのである。

6.奇妙な結合体としての自然主義

自然主義は現実的で科学的である。その故に「平凡」を旨とし、運命論的な思想である。

が、それは、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合が自然主義と名付けられている。

7.現実的精神と反抗精神が連合する今日的理由

両者が今もなお連合するのは、教会に代わる新たな権威(レヴァイアサン)に対抗するためである。

自己拡充の念に燃えて居る青年に取つて最大なる重荷は、これらの権威である。

(どうもこの人の本意がさっぱり読めない。検閲を前提に自己韜晦しているのかもしれない。石川啄木がこれに対する反論を書いているということは、当時の知識人はこれを読んで論旨がストンと落ちたということであろう)

8.日本における「権威」のありよう

日本人にはも一つ「家族」と云ふ権威がある。それは国家の歴史の権威と結合しており、個人の独立と発展とを妨害して居る。

キリスト教は本来個人主義だが、抑圧に抗するために唯物論たる社会主義と結合したりするのもこのためだ。

9.芸術と個人主義

芸術は其内生活の忌憚なき発現であるから、国家の元気がどうの、東洋の運命がどうのと云つて今更始まらない。

自然主義の自然といふ事は有りふれた平凡なと云ふ意味で、っそれはヒロイズムの対極にある。

淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。 

 けれども此の小説によって自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母しとする処である。


要するに何を言いたいかさっぱりわからぬ雑文である。最後のところだけ読むと、「自然主義、大いに結構。若いんだからせいぜいおやんなさい」ということのようだ。