1662年 ウィリアム・ペティ、『租税貢納論』を発表。「すべての物は、二つの自然的単位名称、すなわち土地および労働によって価値づけられなければならない」とする。労働価値説の走りとされる。

アダム・スミス、『国富論』を発表。

①「労働こそは、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった」(本源的購買貨幣)とし、労働価値を逆説的に説明。

さらに

②商品の価値は「その商品でかれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい」と置き換える。これは支配労働価値説と呼ばれる。

「その商品」というのは貨幣と考えると分かりやすい。

リカードは①の定義を洗練させた。「商品の価値はそれを生産するために投下した労働量で決まる」ということである。

これは投下労働価値説を呼ばれる。

ただスミスが「労働はすべてのものの価値の尺度になる」と言っているのとは微妙な違いがある。

一方でリカードは支配労働価値については否定した。同じお金でどのくらいの労働を買えるかは可変だというのである。

これは変な話で、投下労働価値の逆を言っただけなのだから、イコールにならないのなら、その理由を探すのが筋であろう。(流通過程の生産過程からの相対的独立性、とくに市場が高度に発達した下での独自性であろうと思う)

多分、原理的には労働価値説はこれでよいと思う。ただ価値や価格が変動していく場合は、この等式は成立しなくなる。市場を介して需要と相対するようになると、話はすんなりとは行かなくなる。

スミスは「資本の蓄積と土地の占有にさきだつ初期未開の社会状態」でのみ、この等式は成立すると言っている。

私はこの原則はそのままに生かすべきだろうと思う。リカードが変にいじってこの原則を相対的なものにしてしまったのではないか。

まず言いたいことを定性的に言う。その本質をしっかりと定立する。しかるのちにそれを定量的に解析する。これが論理の手順としては必要だ。1エレのリンネル云々はその後だと思う。

さまざまな変動は、この原理がさまざまな条件によって修飾されただけの話であり、それはそれとして分析すればいいだけの話であろう。

ついでに言えば「限界効用」もそうなので、まず人間の欲求の一般的特性を提示し、それが需要として市場に登場する過程を定性的に描き出すことが必要なのに、いきなり各論に入るからわけがわからなくなる。

労働における労働時間のような物差しがないから、どうしても議論は恣意的な「限界」に対する相対的なものにならざるをえない。

理工系の人がよくやる概念なしのモデル先行手法だ。(悔しいがそれでうまくいくことも多々ある)