鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

F 私的所有が交換を生む

①生産物の相互補完行為 「交換」の本質

私的所有(という行為)は、それは人間の(疎外された)類的活動のひとつである。

現実の運動(交換)は私的所有者の私的所有者に対する関係から出発する。

現代社会は私的所有を、所有者の人格のあり方と看做し、この私的所有者間の関係を、「真に人間的な相互補完関係」と看做している。しかし「私的所有」そのものが、既に人間の外化された類的活動である。

交換は、私的所有の外化であると同時に、人間の外化でもある。交換によって、そのものは私の所有物ではなくなる。従って私の人格の定在ではなくなる。(この場合の外化は部分的な剥奪という意味だろう)

私的所有者がこの外化を自発的に行うのは、「必要、欲求から」である。そして人間が社会的存在であり、生産物を相互に補完する関係にあるからである。

読解: ヘーゲル特有の難解語が散りばめられている。類的活動というのは人類固有の活動ということで、「ものを私のものとする」のが人間の特有の行動であるということだ。

しかしこの「私的に所有する」ということは、結果としては他者を排除することになる。それは共同的存在である人間性の否定という面を持つ。

現実の交換は物々交換から始まるが、それは私的所有があるから成立する。「わたしのものではない」ものを他人に譲渡はできないからだ。つまり交換は人間が「疎外」されることにより発生する。

とマルクスは言いたかったのだが、それは本来の交換ではない。もともと交換は「必要、欲求から」行われていたわけで、それは人間が社会的動物である以上当然である。

後の段落でマルクスは、「私的所有下においては、生産物の相互補完が交換取引として現象する」と言い直している。

おそらくマルクスはあとからそのことに気づいて書き加えたのだが、結果として何を言いたいのかわからなくなっている。ボタンを掛け違えないよう注意が必要だ。

ただ、その上で、「現実の交換は私的所有があるから成立する」という“気づき”はきわめて示唆的である。おそらくそこには意識の転倒があるのだろう。そしてその意識の転倒こそが今の社会を成り立たせているのであろう。

これらのことから次のような哲学的な意味が引き出される。

1.ある事物を欲求するということは、その事物が私の本質に関係していることである。それを私が所有することは、それが私の本質に固有な属性である

2.交換は私的所有の相互的外化である。だから私的所有者間の関係は、外化の相互規定性に基づいている。

3.交換は外化された私的所有であり、他の私的所有一般と対置される。交換によって私的所有は「同等物」、「等価物」となる。こうして、「私的所有」は価値に、直接的には交換価値になっていく。

読解: 1と2は大したことは言っていない。3も、言ってみただけみたい なところがあるが、こういうことだ。交換することで、ものは第三の特性を獲得する。ものは第一に使用価値であり、第二に所有物であるが、もう一つの特性が 加えられる。それが価値(とりあえずは交換価値)である。

ただマルクスは私的所有に引き寄せて語りたいのでこういう表現になるが、話としてこういうことだろう。ものは直接には使用価値として質的規定を与えられるが、交換過程を通して、量的規定を付加されるということだ。だとすれば、それはミルにとってもイロハの問題だろう。


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