C マルクスの考える「貨幣の本質」 その1

マルクスは第2-25パラでミルの「貨幣の本質」規定を批判し、自らの貨幣論を展開するのだが、第2~5パラがその要約に当たる。そして第6パラ以降で詳論に移る。

ここではその「要約」の要約。

貨幣の本質: まず、人間が生産物を相互に補完し合う活動がある。やがてそれらの活動は疎外される。
②こうした状態の下では、人間は「自己を喪失した人間」として活動しているに過きない。そこでは人間は、人間の外に存在する貨幣の属性になっている。
③人間の奴隷状態は頂点に達し、貨幣が現世の神となる。

読解: まずマルクスはミルから離れて、市民社会論と疎外論から入る。これらは「ヘーゲル法哲学批判」で展開した到達点であろう。そして人間が市民社会の中で疎外されていくに際しての回転軸として「貨幣」を当てる。率直に言ってこれはドグマであるが、作業仮説でもある。

D 「貨幣の本質」 その2 私的所有の貨幣態への発展

第6-8パラでは私的所有の貨幣態への、更に信用制度への発展が展開される。

①人間は社会的な存在として交換に入る。私的所有の場合には、交換は価値(の交換)にまで進まざるを得ない。

②したがって価値とは私的所有同士の関係が抽象化されたものである。そしてその関係が現実的な実存となったものが貨幣である。

③貨幣は素材的内容に無関心である。それは使用価値の捨象である。その故に抽象的な価値である。

④貨幣は「市民社会の生産や運動に潜む貨幣魂」が「感性的」に現れたものである。

読解: 人間は交換する生き物である。それが社会的存在ということである。私的所有の場合(今の時代と読んでおく)、人間関係は「価値の交換」(お金の交換と読んでおく)に進む。

その際、お金は交換に向き合う人々の関係の象徴となる。象徴としてのお金はモノのあれこれの有用性とは関係なくなる。そして市民社会の魂となる。

これから先、マルクスはおそらくヘーゲル法哲学批判の論理を重ねあわせることで、国民経済学への批判を一気に展開していく。

マルクスの主張をまとめると:

近代の国民経済学による重金主義批判は不徹底である。所詮は「同じ穴のムジナ」に過ぎない。

金銀財宝を信仰する迷信からは逃れたが、商品の現実の価値はそれの交換価値であり、それは結局貨幣の価値だとする点では進歩していない。

むしろ、近代の国民経済学は完成化された重金主義にすぎない。なぜなら貨幣がより抽象的であるほど、それはより完成した貨幣だからである。

紙製の貨幣および代理物(手形、為替、債券等)は、貨幣としてのより完全な定在であり、貨幣制度の発展をうながす必然的な契機である。

読解: これも字面を読む限りではマルクスのいちゃもんにすぎない。「同じ穴のムジナ」とか「完成化された重金主義」というのは誹謗に近い。

紙幣や代理物を「貨幣制度の発展をうながす必然的な契機」と評価するなら、前言と矛盾することは明らかだ。なぜならそれは重金主義の否定の上に成り立つからだ。

ただ先にも述べたように、マルクスには「うまく言えない思い」がある。国民経済学は原論部分では「剰余価値」を認めている。人間の労働こそが価値を生み出すのだ。それが貨幣としての「金の延べ棒」の価値だ。

にも関わらず、いったん貨幣論に入ると、それはあっさりと「生産費」にくくられてしまう。この矛盾をマルクスは問いたいのだと思う。

もっと価値論(人間的労働)の立場で生産物を評価して、生産物の交換という社会関係の全体を把握して、その関係の「あくまでも表象にすぎない」貨幣を概念化すべきだ、と言いたいのではないか。