B ミルの貨幣法則把握は抽象的だ

ミルの規定: 貨幣量の増減が自由に行われていれば、貨幣量はその金属価値によって規定される。そして貨幣の金属価値は生産費によって規定される。

読解: 貨幣量の増減が自由に行なわれるということは、貨幣、すなわち金の生産が無尽蔵に可能だということだ。実際にはそんなことはありえないが、そう仮定するということだ。

貨幣の素材としての金はそれ自体価値を持っている。金相場で1トロイオンスあたりいくらという値段が付いている。

この価格はいかにして決まるか。もちろん需要と供給の関係で価格は上下するのだが、基本的には生産費によって決まる。競争があるのだからバカ高ければ売れないので、適正利潤の範囲に収まる。

ということで、金資源の相対的有限性の無視を除けば、きわめて当然のことを言っているのだが、マルクスはこれに噛みつく。

マルクスの批判: ミルは抽象的な法則を述べるだけだ。この法則の変動には触れない。生産費は究極において価値を規定するというのは、決して不変の法則ではない。生産費は一要素に過ぎない。
その法則が如何にして私的所有の本質から生じるかを確証しなければ、本質的な把握とはいえない。

読解: これは筋違いの議論でほとんど言いがかりだ。ただこれは自己への問いかけなのであろうと思う。マルクスは身悶えしている。

ミルが生産費というのは剰余価値を含んでいるわけで、金山に眠る金鉱石と商品として完成し市場にかけられたた金の延べ棒の間には明らかに価値の差がある。これはいわゆる生産コストを遥かに上回る。そこに付け加えられたのは、ざっくりまとめて言えば人間の労働である。

ただそれは資本家にとってはすべて合計した「生産費」なので、その限りにおいては別に間違っているわけではない。マルクスの言わんとするのはその次の段階、いわゆる「生産費」とは何かということであろう。

なお、大石さんは
この部分から、マルクスがリカードウ労働価値説を拒否したと考えるのは間違いである。ただ、競争や市場価格をも考慮に入れなければならないと言っているにすぎない。
と言っているが、どうであろうか。