リャプノフを聴きこんでみた。
とても良い。
以前にもリャプノフについて書いたことがある。あの時はやや突き放した書き方になってしまったが、聴きこんでみるとなみなみならぬ力量に改めて驚く。
作品1の3つの小品(練習曲、間奏曲、ワルツ)がすべて良い。メロディーにあふれていて、音が透き通っている。鮮やかなデビューである。作品3の「昨夜の夢想」もメンデルスゾーンの無言歌のようで、エレガントこの上ない。
作品6の7つの前奏曲のアンダンティーノ・モッソとレントは限りなく美しい。作品8の夜想曲は間違いなくショパンに比肩される。
作品9に始まる8曲のマズルカは、ショパンのレベルを超えて大規模で内容豊かなものとなっている。
そしてリャプノフの代表作である作品11の12曲の超絶技巧練習曲である。全12曲のどれもが聴き応えのあるものであるが、私としては3,5,6,7,9,10をとる。トランンセンダントであるか否かは分からないが、リストの超絶技巧練習曲とはまったく異なり技巧のひけらかしはなく、あくまでトランスペアレント(透明)である。
作品23の即興的ワルツになると多少モッタリ感が出てくるが、相変わらず美しい。作品25のタランテラも最後まで疾走感が途切れない。作品27のピアノソナタは超絶技巧練習曲とならぶリャプノフの代表作である。
ところが作品29の即興的ワルツでは何か曲想が走らず疲れが見える。作品31のマズルカ第7番もどことなく緩みが見える。これが08年の作品だ。
作品36の最後のマズルカ(第8番)では歩みは少々途切れがちになるが、まだ十分に美しい。
これが1910年の作品40の前奏曲集になると、曲の展開力は失われ、つぶやき風の内省的な音楽に変わっていく。主旋律は借り物風のテーマになり、ドビュッシーもどきの短い細切れ風のものとなる。あの光彩陸離たるリャプノフの姿は消え、貸衣装姿のリャプノフが浮かび上がる。
作品41の降誕祭も作品45のスケルツォも少しも面白くない。作品46の舟歌はリャプノフの代表作の一つとされるが、華やかさにはかける。作品49の「ロシアの主題による変奏曲とフーガ」、作品57-2のプランタンの歌はさすがにリャプノフと思わせるが、それにしても一体どうしたんだ。同じ変奏曲でも1915年の作品60のグルジアの主題による変奏曲は無惨ですらある。
この後のリャプノフには良く言えば渋みみたいなものが出てくる。多分もっと聴きこめばそれなりの味わいは出てくるのだろうが、とりあえずは作品36まででよい。我々の聞きたいのはショパン風リャプノフであって、ブラームス風味ではない。
それにしても、ロシアの作曲家が揃いもそろってみんな途中からちょん切れてしまうのはなぜか。これまではそれぞれの作曲家の特性と思ってきたが、これだけ揃うと、それだけではなく時代背景があったのかとも考えてしまう。
はっきりと断言はできないが、1910年を挟む数年間にそれらは集中しているようにも思える。第一次世界大戦が14年からで、ロシア革命が1917年だから、それよりちょっと前だ。
ちょっと思いつくのはフランスにおける印象派音楽の隆盛、ウィーンにおける無調派音楽の登場の影響である。
こういう風潮が風靡すると、曲の善し悪しよりも新しいかどうかが評価の基準になりがちだ。頑迷牢固とか因循姑息とか旧態依然とか言われると、結構みんな参ってしまうのかもしれない。
音楽かというのは芸術家だから世事に疎いかと思いがちだが、人気稼業でもあるから世間の評判は気になるものである。とくにクラシック音楽の場合は「評論家」という存在がランク付けして、それが人気にも収入にも直結する「いやな世界」だから、これで葬り去られてしまうことがしばしば起きた可能性もある。
だって、リャプノフという稀代の作曲家が、いまはすっかり埋もれてしまっているんだから…
ということは、20世紀初頭に活躍していまはすっかり無名になっている作曲家の中には、発掘するに足るタレントがまだまだいるということだ。少なくともその可能性はある。