バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

一つのベンガルの時代

 8世紀 中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。

12世紀 ヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。

16世紀 イスラムが多数派となる。ムガル帝国の下で商工業の中心地へと発展する。

1651 イギリスの東インド会社、コルコタに商館を設け、ベンガル、ビハール内陸部との交易に乗り出す。

1757  プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルのナワブ軍に大勝。ベンガルに対する植民地支配が開始される。

1765 イギリスがディワニーと呼ばれる徴税行政権を獲得。その後イギリスはベンガルからインド全域に支配を拡大した。ベンガルはその中心となり「黄金のベンガル」と称された。しかし織物をはじめとする伝統産業は英国の商品により壊滅。

ベンガル人の誇る文豪タゴールの詩「ショナール・バングラ」(黄金のベンガル)が下敷きとなっている。「おぁ黄金のベンガルよ。我は汝(なんじ)を愛す…」という詩は、バングラ・デシュの国歌となっている。

1905年 イギリスはインド人の分断を意図し、ベンガル分割令を発布。ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割する。(梅干しを二つに分けるとき、カルカッタという種が入っている方が西ベンガルで、入っていないほうが東ベンガル)

1929年 ムスリム上層農民を基盤とする「全ベンガル・プロジャ党」が結成される。ベンガル人意識が後退し、ムスリムとしての意識が高揚。

1943年 ベンガルで大飢饉。150万~300万人の死者を出す。

1946年8月 コルカタ(旧カルカッタ)暴動。ムスリムとヒンドゥーの衝突で4千人の死者を出す。

東パキスタンの時代

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分かれ独立。東ベンガルはパキスタンへの参加を決定。パキスタンは「回教徒の清らかな国」を自称した。宗教はインド亜大陸の最高の掟となった。

1949 年 東西パキスタンはベンガル語とウルドゥー語という言語の違い、西パキスタンの政治的優位などから矛盾が拡大。アワミ連盟の前身である「東パキスタン・モスリム・アワミ連盟」が設立される。

1952年2月21日 パキスタン中央政府、ウルドゥ語を公用語に強制。これに抗議するダッカの学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出す。後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動とされる。

1955 年 アワミ連盟、政教分離の観点から党名中の「モスリム」を削除する。

1966年 アワミ連盟が6項目綱領を提案。国防・外交・通貨以外を州管轄事項とするよう求める。中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕。

1970年12月 パキスタンで初めての総選挙。人口に勝る東パキスタンに基盤を有するアワミ連盟が第一党となる(アワミ連盟は東パキスタンで162議席中160議席を獲得)。中央政府は国会を開催せず、アワミ連盟を無視しさまざまな妨害工作。

バングラデシュ独立の闘い

1971年
3月1日 パキスタン中央政府、憲法制定会議の無期延期を発表。
3月2日 ムジブル・ラフマンがパキスタン政府への非協力を宣言。パキスタン中央政府は軍を空輸しアワミ連盟幹部を拘束。ムジブル・ラーマン総裁は西パキスタンに連行される。国家反逆罪に問われ、死刑を求刑される。

3月25日11PM パキスタン軍がダッカ市内の攻撃を開始。大学の構内などで大量殺戮がはじまる。新聞社や警察署なども攻撃され破壊され、数多くのスラムも焼き払われた。

3 月26 日 東パキスタンは独立を宣言。パキスタン軍を離れた東ベンガル部隊、国境警備隊が中心となり、ムクチ・バヒニ軍(バングラ・デシュ解放軍)が形成され、パキスタン軍に対抗する。

東の部隊は東ベンガル連隊6千人のみであった。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担った。ムクチ・バヒニは終盤では志願兵を含め10万人以上に達した。

4.09 イスラム協会やムスリム連盟などが「平和委員会」を結成。実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的とする。イスラム協会は実力部隊として「ラザカル」を創設。その学生は「アル・バタル」を組織。ムスリム連盟は「アル・シャムス」を組織する。

パキスタン軍は各地で大量虐殺を行った。死亡者は9ヶ月で300万人に達する。
ジェノサイドにはバングラデシュに住む少数民族ビハリが手先になった。ビハリは東パキスタン独立時にインドのビハール州から移民したイスラム教徒。非ベンガル系で、何故か西パキスタンと同じウルドゥー語を話す。
パキスタン軍はビハリを武装し、「ラザカル」(民警)という名で呼ばれる現地傭兵とした。ベンガル人を殺したのはこのラザカルだった。ラザカルはベンガル人の捕虜を一人もつくらなかったといわれる。全部殺した、という意味だ。

12月3日 インド政府が東パキスタンの内戦に介入(第三次印パ戦争)。

12月16日 西パキスタンの派遣軍がインド軍に降伏し撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たす。

西パキスタン軍は多くの置き土産を残した。狂信的な極右回教徒組織「アル ・バド」は、ダッカ陥落の直前に知識人、学者、ジャーナリストを惨殺した。
また、大量の武器をラザカルの手に残した。解放直後、クチ・バヒニは各地で ビハール人、「ラザカール」、ベンガルトの敵対協力者に「目には目を」式の報復を行なった。ラザカルの残党とビハリは、文字通り必死の戦闘を繰り返したという。 

ムジブルとアワミ連盟の時代

1972年1月 ムジブル、パキスタンから戻り首相に就任。「3年待って欲しい。3年たったら我々はこの国をショナール・バングラ(黄金のベンガル)にするだろう」と呼びかける。

3万7,471人がコラボレータ(パキスタン協力者)として逮捕される。起訴されたのは2千人程度で、実際に有罪となったのは752人だった。

1972年8月 独立戦争におけるゲリラ闘争の指導者として国内闘争を主導したタヘル大佐、「人民の軍隊」を主張し、ナジブル首相に解任される。この後タヘルは地下に潜入,武装活動を続ける。

12月 憲法が公布される。「社会主義」、「民族主義」、「政教分離主義」、「民主主義」を国家の基本原則とする。

1974年

9月 バングラデシュを大洪水が襲う。被災地では3万人が餓死。これまでの経済の疲弊、オイルショックによる不況に拍車がかかる。買占め,売おしみが横行,ダッカ市内の米価は2.6倍となる。

12月 ムジブル・ラーマン、汚職・密輸の蔓延、治安の悪化に対処するため非常事態宣言を公布。

二つのクーデター

1975 年

1 月 ムジブル・ラーマン首相、憲法を改正。議院内閣制から大統領が実権を有する大統領制に変更。大統領の権限を大幅強化、自ら大統領に就任。綱紀粛正の訴えとは逆に身内の重用、大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)の強化などに批判が強まる。

ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問したとされる。

1月 東ベンガル・プロ レタリア党(ナクサライト)の委員長シラジ・シクダルが逮捕される。タヘル大佐の人民革命軍と共同行動をとっていた。

8月 7人の少佐(いずれもムクチ・ビハニ出身)による反乱計画が実施される。ファルーク・ラーマン少佐(戦車連隊大隊長)は自分が首謀者だったと主張している。CIAが裏で策動したとも言われる。

15日未明 約300人の兵士と戦車・装甲車などが大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)司令部を攻撃。同時に別部隊がムジブル一族の邸宅を襲い、皆殺しにする。

午前5時30分 反乱軍のダリム少佐(前ダッカ守備隊長)がバングラデシュ放送を通じ演説。「ムジブル大統領は殺害され,新大統領に就任したアーメド前商相の指揮の下に,軍が権力を握った」と発表,同時に全土に戒厳令を発布。

午前10時30分 アーメド前商相が放送を行ない,大統領就任を告げる。前政権の腐敗を強調。

8月20日 アーメド大統領声明。腐敗政治家・官僚を一掃。単一政党BAKSALの解散、大統領親衛隊ロッキ・バヒ二の解散、価格統制の廃止、銃・弾薬の回収を行う。

9月9日 アーメード政権,「国防軍に関する政府の見解」を発表,その中で,「過去3年半の国防軍に対する無視・軽視を考え,政府は独立戦争を戦った人々を相応しい,名誉ある地位につけること」を明らかにする。

9月 青年将校らは大統領官邸内に陣取り,中央コントロールセンターを通して軍の支配を図る。ジアウルら陸軍首脳部は青年将校に原隊復帰を命じるが無視される。

11月3日 アワミ派のムシャラフ准将による対抗クーデター勃発。ムシャラフ・クーデターの背後には、既得権益の確保を狙うインドが存在していたとされる。

11月3日午前2時 カリド・ムシャラフ将軍に率いられたダッカ駐屯第46歩兵旅団3大隊が大統領官邸を包囲,放送局を占拠した。青年将校の身柄引渡し,ジアウル陸軍総参謀長の解任,権力の引渡しを要求する。

午後10時 政府と反乱部隊が合意。政府側は青年将校とその家族29人の国外退去,ジアウル陸軍総参謀長の解任とムシャラフ准将の少将昇格・陸軍総参謀長就任,アーメド大統領の辞任を受け入れる。

ジアウル将軍は兵営内に監禁される。青年将校らは行きがけの駄賃に前副大統領、前首相、前蔵相、前工業相を殺害。

11月4日 前政権幹部4人を失ったことから、ムシャラフ派の権力構築が難航。急拠計画を変更,軍革命評議会を結成して,軍政を敷くこととなる。カリルル・ラーマン軍統合総参謀長はムシャラフの就任要請を拒否。

カリルル・ラーマンはパキスタンから帰国した正規軍グループを代表する人物。軍内パキスタン派は一連の事態に対して一貫して中立を保った。

11月5日 人民革命軍がダッカに出現。兵営内で大量の反軍ビラをまくなど宣伝行動。

上級将校が「自己の利己的・野心的権力欲」のためにクーデターを繰りかえし,下級兵士を利用収奪しているとして,兵士 たちに対してムシャラフ派将校の指令に従わず,「人民の軍隊」のために彼等の上級将校と闘争するよう呼びかけた。

11月5日 人民革命軍に呼応した下級兵士たちは「12項目要求」を掲げ, 各地の軍隊内部で将校との闘争を開始する。

12項目要求: 給与の引上げを含む経済的諸要求,政治犯の釈放,汚職,腐敗分子の財産没収,将官と兵士の差別撤廃,将校当番制度の廃止など。さらに軍を支配階級のためのものから人民に奉仕する軍とする。そのために真の革命的兵士により中央革命軍事会議を設置、軍最高司令官もこれに従えというものであった。

11月7日 民族社会党(JSD)に属する左翼軍人グループが決起。「セポイの革命」と呼ばれる。

独立達成後、「ムクチ・バヒニ」の左翼は民族社会党(JSD)に結集し、その軍事組織であるPRA・RSOとして活動した。これらは「人民革命軍」と呼ばれ、アブ・タヘル大佐(退役)に指導されていた。
セポイの乱については、いずれ稿を改めて紹介する。

1時30分 「人民革命軍」が監禁されていたジアウルを救出。1時間余の交戦の末,ムシャラフ少将ら34人を殺害する。

4時30分 放送局を占拠した兵士は、「セポイの革命によりムシャラフ派が追放され,ジアウル・ラーマンが陸軍総参謀長に復帰,戒厳令総司令官に就任した」と放送。

5時 ジアウルが放送演説。「陸海空軍,BDR,警察その他多くの人々の要請により,わたしが暫定的に戒厳令総司令官についた」と発表する。

夜 アーメド前大統領がテレビ演説。「バングラデシュの独立と主権を守るための兵士たちの比類なき革命に心から感謝する」と述べる。

人民革命軍はジアウルを通して「軍の革命的改組」をはかろうとした。ジアウル革命軍事会議の設置に反対し、サエム大統領を戒厳令総司令官とし,三軍総参謀長・文民による諮問委員会の設置を提案。両者の押し合いが続く。

兵営内では将官と下級兵士のきびしい対立。ダッカだけで40人以上の将官が殺される。

7日夜 ムシャラフ派に擁立されたサエム大統領は,自ら戒厳令総司令官に就任すると共に,三軍総参謀長を戒厳令副司令官に任命した。

8日 サエム大統領、国会の解散 と閣僚の解任,総選挙の1977年2月までの実施を発表。

11月9日 JSDと人民革命軍がダッカで集会を開こうとするが、ジアウルは実力で阻止。このあと軍内統制を強化する。

11月11日夜 ジアウルが全国放送で演説。①現政権はいかなる政党にも関与しない中立暫定政権である,②軍は国民の間に不安と不満をつくり出す動きと対決する,③軍の最大課題は軍人の利益と福祉を守り,国軍を近代的で有能な軍隊にすることである,とのべる。

15日 戒厳令規則が改定。軍・BDR・警察の名を騙り,反国家的活動を教唆・煽動したものは厳罰に処すと発表。

11月25日 タヘルとJSD指導者たちは反国家的活動を行なったとの理由で再逮捕される。

11月26日 サエム大統領、民間から4人の諮問委員を任命,三軍参謀長と共に諮問委員会を創設。事実上の軍政に移行。

11月25日 軍統制派は、アブ・タヘル大佐らセポイの革命指導者を半国家活動の容疑で逮捕。タヘルが死刑、その他も重刑に処せられる。

12月28日 軍統合総参謀長のポストを廃止。カリルル・ラーマン統合参謀長の事実上の解任となる。

ジアウルの時代

1976年

1月 ジアウル、陸軍の再編・強化に着手。4個師団を9個師団編成とする。兵力はパキスタン帰還兵約1万人を含め,約3万5000人に達する。

4月30日 空軍総参謀長のタワブ少将が解任され、国外に追放される。タワブは回教徒指導者を使って各地で大規模な「祈りの集会」を開かせる一方、8月クーデターの首謀者ファルーク大佐を国内に導き入れた。

タワブはバングラデシュ回教共和国への改名、パキスタンとの連邦制を主張。ファルークはジアウルへの反乱を呼びかけた

11月 サエム大統領、総選挙の無期延期を発表。戒厳令総司令官の任務をジアウルに移譲する。これにより軍政が継続されることとなる。

11月29日 ジアウルが戒厳令司令官に就任し、実権を掌握。

12月 ジアウル・ラーマンが全国放送で演説。民族主義,自力更生,国民参加の3つの基本原理を掲げる。民主主義・社会主義については触れず。

1977 年4 月 サエムに代わり、ジアウル・ラーマンが大統領に就任。憲法を改正し「政教分離主義」が削除される。さらに憲法冒頭に「恵み深く慈悲に溢れた神の名にお いて」とのコーランの文言が追加される。さらに独立戦争中に大量虐殺を繰り返したJI の政治活動再開が認められる。

1978年4月 ジアウル大統領、民政移行に備えバングラデシュ民族主義党(BNP)を設立。資本主義化政策をとる。

1979年 議会選。BNPが、議席の3分の2を獲得する。戒厳令が解除される。

1981 年5 月 ジアウル、軍人グループにより暗殺される。夫人のカレダ・ジアがBNP党首に就任。

エルシャドの時代

1982 年3 月 エルシャド陸軍参謀長が無血クーデター。戒厳令司令官となる。

1983年12月 エルシャド、大統領に就任。エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが守られなかった。

1986 年1月 エルシャド大統領、権力の受け皿として国民党(JP)を設立。(現在は3派に分裂し弱体化)

1987年  パキスタン協力者たちの軍政下での復権を描いた『71年の殺人者と手先たちの消息』が刊行され、1 年間で1 万部売れる。

1988 年5月 憲法改正によりイスラム教は国家宗教とされた。

1990年12月 エルシャド政権、民主化運動の高揚の中で退陣を迫られる。軍事政権の時代が終わる。

バングラデシュ民族主義党 (BNP)の時代

1991年2月 総選挙。ジアウル派のバングラデシュ民族主義党 (BNP) が民間実業家、退役軍人などの支持を集めアワミ連盟 (AL) を破る。ジアウル未亡人のカレダ・ジアが初の女性首相に就任。

7月 憲法改正。大統領による独裁を防ぐため、再び議院内閣制に復帰する。

95年2月 総選挙の実施(野党はボイコット)。カレダ・ジア政権の再発足。

3月 憲法改正により、暫定選挙管理内閣制度を導入。BNP政権は直ちに退陣。

6月 やり直し総選挙でアワミ連盟が勝利。ムジブル・ラーマンの長女シェイフ・ハシナが首相に就任。

2001年10月 第3回総選挙。バングラデシュ民族主義党(BNP)はイスラム協会(JI)、国民党(ナジウル・フィロズ派)、イスラム統一連合(IOJ)と4党連立を組み政権を握る。

2003年,JMBのアジトで爆発事件が発生し,大量の爆発物などが発見される。

2004 年4月 チッタゴンの国営肥料工場にて、AK47 ライフル銃690 丁、手榴弾25,020 個、銃弾180万発をなどトラック10 台分の武器が押収される。

8 月 アワミ連盟事務所前での集会に手榴弾。20名が死亡。この他アワミ連盟への襲撃が相次ぐ。

2005年8月 JMBが非合法化される。JMBはダッカを含む63県で爆弾テロを実行。

2006年 軍が政治介入。BNP・JI 政権を退陣させ、選挙管理内閣に移行。

2007年3月,JMBの指導者及びナンバー2を含む最高幹部6人が,2005年の爆弾テロで死刑を執行される。


アワミ連盟の時代

2008年12月 総選挙でアワミ連盟などからなる「大連合」が300議席中262議席を獲得し圧勝。ハシナがふたたび首相に選出される。BNPを中心とする4党連合は、汚職への批判などから大惨敗を喫し32議席に激減。

2010年5月 再建されたJMB指導部がふたたび摘発される。

2013年 ハシナ政権、JI の独立時の戦争犯罪への追及を開始。

1月21日、パキスタン兵による残虐行為に加担した罪で、JIのアブル・カラム・アザド、デルワール・ホサイン・サイディ、アブドルカデル・モラーに死刑判決。

2月 判決を支持する人々がダッカ中心部の広場で座り込み。まもなく中心人物が暗殺される。

4月6日 JIが組織した20万人のデモ。「政府も無神論者の仲間だ」と主張し、厳格なイスラム法に基づく憲法改正などを要求。JIと連立するBNPはJI支持の態度を表明。

7月 高裁、JI の選挙管理委員会への登録を違法とする。この間、イスラム主義者らと警察との衝突などにより約500人が死亡し、数千人が逮捕される。

12月 モラーが処刑される。

モッラは民兵を率い、学者や医師、作家やジャーナリストを殺害した。レイプや350人以上の非武装の民間人の集団虐殺も指揮した。その残虐行為の大半が行われた地名から「ミルプールの虐殺者」と呼ばれていた。

2016年

5月 JI幹部モティウル・ラーマン・ニザミが処刑される。

6月 ハシナ政権によるJI の取り締まり作戦。武装グループや野党関係者らを合わせ計1万1千人を一斉に逮捕。背景にイスラム過激派による相次ぐテロ事件(宗教的マイノリティ、無神論者、世俗主義者、与党幹部などへの襲撃)