デゾルミエールのナチ占領下の活動について伝える文章を見つけた。

Music and the Holocaust というサイトの

という文章である。
desormiere

指揮者 Desormiere はフランスの抵抗の目立たない英雄の1人であった。

彼は戦争の歴史においてしばしば忘れられている。彼が舞台裏で動いたためだ。しかし彼が果たした役割は重要なものであった。

ドイツの文化的な支配に直面したDesormiereは、フランス音楽の保存のために激しく闘った。

1941年に、彼はドビュッシーのPelleas et Me'lisandeの全曲を録音した。Opera-comique の上演活動を維持した。そして、フランス音楽のほとんどすべてのレパートリーのコンサートをプログラムした。

彼は占領期間のすべてを通じてたった2曲のドイツ音楽しか演奏しなかった。

彼はチャリティー・コンサートを企画した。フランスの音楽家の苦難に対してお金を集めるためである。

ダリウス・ミヨーがフランスからの亡命を強制されたあと、Desormiereは彼の全ての絵と個人の財産を守り、戦争が終わるまで彼の家賃を払い続けた。

(6人組のうちミヨーは弾圧され、プーランクは無視され、オネゲルは重用された。オネゲルは大戦開始前には明確に反ファシズムであったが、占領後の政治的立場には微妙なものがあった)


隠れることを強いられた音楽家、たとえばユダヤ人の映画音楽作曲家 Jean Wiener らのために、Desormiereは援助した。彼らの曲の多数にみずからの名を署名することで、世に送り出した。そのことで彼らは地下で作曲活動を続けることができた。

戦争の後、Desormiereはそのことを明らかにした。音楽家たちは実力にふさわしい評価を得た。

しかし、Desormiereのもっとも傑出した行為はそんなことではない。彼はレジスタンス組織 Front National des Musiciens (音楽家国民戦線)を組織した。

1941年、Desormiere は若き作曲家 Elsa Barraine とともに Front National des Musiciens を結成した。それは共産党の組織と連絡しながら、著明な作曲家、たとえば Francois Poulenc, Louis Durey, Georges Auric, Charles Munch、Claude Delvincourt を仲間に加えた。

グループの狙いは全てのフランスの作曲家と主要なオーケストラの全ての監督を組織することにあった。しかし最終的にはそれは控えめなものに留まった。

1944年までに、メンバーは30人だけに留まっていた。

それにもかかわらず、グループは音楽家のあいだにかなり重要な統制を実現した。そして占領下フランスでの作曲や演奏活動に影響を与えた。

1942年7月までに、グループはよく組織された委員会に編成された。そして地下の新聞(Les Musiciens d'Aujourd'hui)の第1号が発行された。

これは、音楽家に抵抗する方法について指示を与えようとするものだった。

1942年10月の特別版は 'Front de la Re'sistance Chez les Musiciens' と題されていた。そこには5つの重要ルールが提起されていた。

音楽家はフランスを救うためのコンサートをプログラムするべきだ。

ユダヤ人作曲家、たとえばダリウス・ミヨーらの曲を演奏する多くの秘密のコンサートが始められた。

パリではある公共コンサートが開かれた。その演目は 'Hamid-ul-Hasarid' の 'Mous-a-Rachac' であった。

コンサートは大成功であった。そして、ドイツ人はこの作品がミヨーの「スカラムッシュ」だと理解することができなかった。

音楽家はまた、お互いに連帯した。拘束された同志や隠れて生活するユダヤ人音楽家の家族に、彼らの給料の半分を与えた

デモンストレーションが奨励された。たとえばドイツの兵士の面前で何気なくフランス国家 La Marseillaise を演奏するようなこと。

作曲家はポピュラーソングと行進曲を提供するよう求められた。それはMaquis Resistance の兵士に届けられた。抵抗詩人が歌詞を提供した。

音楽家はドイツ人と協力することを禁止された。ラジオ・パリの仕事も、ドイツ人のコンサートやフェスティバルに参加することも、ドイツの新聞に寄稿することもだ。

新聞はまた、裏切り音楽家を暴露し指弾した。

Elsa Barraine は、いくつかの論文を発表している。たとえば「ナチの退化に奉仕するドイツ音楽」であり、「フランス音楽とヒューマニズムの伝統」である。それらはフランスの文化的信念を支持するよう書かれていた。

Desormiere もまた、ペタンの支持者、たとえばテナー歌手 Lucin Muratore らを「ナチ協力者」と非難した。

1943年9月、第二の秘密新聞 Le Musician Patriote が発刊された。

Front National des Musiciens はまた、いくつかのサブグループを育てた。

そのうちの1つが、ユダヤ人作曲家アレクシス・ローランド-マヌエルのチームだった。このチームは音楽家とラジオ技術者から編成されていた。

彼らはパリで、実験的なスタジオを始めた。それはエリュアールやアラゴンなど抵抗詩人の詩を放送して、Schoenberg やミヨーのような禁止された音楽家のレコードを放送した。

彼らは小さいハンドバッグの中に収まるラジオ・セットをつくった。人々は密かにそれを聞いた。

D・デイまで、チームはナチによって禁止された音楽を聞くため、外国のラジオ局に聞き耳を立てた。

モスクワ・ラジオが重要な曲(例えばロシアの国歌)を流した時、チームはそれを五線紙にできるだけ忠実に写しとった。そして曲を録音した。

連合国がパリを解放した日、その放送はすべての国の国歌を、首都の至るところに取り付けた拡声器で流し続けた。

言うことは簡単だ。これらの音楽家の行動は、政治的作戦に比べれば、あるいは他の抵抗組織のゲリラ闘争に比べれば、一段低いものにすぎないと。

しかし Front National des Musiciens はドイツの文化的な支配に直面して国民精神を育てるのを助けた。フランス音楽を振興することを通じて、フランス中の孤立した人々を結びつけた。希望を刺激する歌で人々の精神を高めた。

ナチはその力を認識した。そして何度か Elsa Barraine を逮捕した。そして作曲家マヌエル・ローゼンタールを追い求めた。

幸いにも大部分のメンバーは生きて逃れた。

By Daisy Fancourt 

 
そうだったんだ。デゾルミエールのインターナショナルは伊達ではなかったのだ。マヌエル・ローゼンタールまで登場するのだ。
desormiere

Roger Désormière dirigeant l'Internationale en 1949