梅川勉さんがなくなった。まぁ私には縁がなかった理論家だが、すこしグーグルをあたってみることにした。

最初に出てくるのが佐久間昇二さんという方のエッセイで、「研究者志望からビジネス界へ」という題。副題は「1950年代前半の経済学部・経営学研究科」となっている。大阪市大の雑誌に寄稿されたものらしい。

佐久間さんは松下電器の副社長、WOWOW社長などを歴任されたビジネスマンだが、昭和25年(1950)に大阪市大の経済学部に入学され、修士ふくめて6年間をそこで「ノンポリ」として過ごしたという体験の持ち主。

当時「アカの巣窟」と言われた大阪市大の内側が切り取られていて面白い。そしてそこに梅川さんも登場するのである。

抜粋、紹介しておく。なお2011年の執筆で、まだ存命の人も多いこともあって多少遠慮はしているとのことだ。


…一回の運動場で学生大会をやっていると、突如警官隊が高い塀を乗り越えて突入してきた。学生は散り、私もゲタを脱ぎ捨てて逃げた。警官に棍棒で殴られてもいた。

…警察に行き、捕らえられた学友の無実を訴えたが相手にしてもらえない。そこに学生運動の幹部がやってきたので、援助をもとめたが、「変に動くと我々が捕まる」と言って行ってしまった。

これがマルクス主義を信奉する急進派の人たちに不信感を抱いた最初の経験であった。

学生大会がよく開かれた。そこには若き気鋭の教官が登場し強烈なメッセージを発した。とくに林直道先生が印象に残る。

…農業経済論のゼミに進んだが、助手の梅川勉先生の存在に違和感を感じた。梅川先生は講座派のバリバリ。ゼミの中でも梅川先生の発言は顔をしかめられることが度々だった。

この頃、共産党は極左冒険主義の路線を突走っていた。大阪市大はその先頭を走っていた。まさにその中に私は在学していたことになる。

梅川先生は山村工作や農村調査について、折りに触れ私達に話しかけられる。私たち普通の学生は良い民間の会社に就職したいと思っているから、そこへ入り込むのは危険と思っている。

もちろん梅川先生は無理強いはされない。しかしそこには我々こそ正しい真理の信奉者であり、それに異を唱えるものはブルジョア的、右翼的立場と位置づけられる。この独善的態度、非科学的態度に私自身はついて行けないものを感じた。

その間の大阪市大の雰囲気は、急進派の学生、上林貞治郎教授、岡本博之教授などを筆頭に若きエリートたちが闊歩し、学究肌の先生たちはそれを静観されているように思われた。

昭和30年、日本共産党は武装闘争方針の放棄を決議した。あわせて全学連は従来の路線から180度の転換を迫られた。

これらの方針転換は大阪市大の中にも大きな影響を及ぼした。大学教員の動揺は一部学生にも強く反応した。それは昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判によって極限に達する。

とくに大学院で学ぶ急進派に属する学生の憔悴ぶりはきつかった。同級生の一人は「急な変化に自分と自分の道を見失ってしまう」と受けたショックの大きさを隠さなかった。

後略