前の記事(衛氏朝鮮の歴史)を見ると、我が日本にとって衛氏朝鮮の滅亡(BC100頃)より遥かにインパクトが強いのが箕氏朝鮮の馬韓占領(BC190頃)だ。

これに関してはほとんど資料がなく、漢書のみと言って良い。ビリーブ・オア・ノットの世界だ。

この時期、北九州ではやっと板付2から中期に入ろうかという時代だ。直接的な影響はほとんどなかったと言っていいだろう。しかしその後の弥生社会の形成には少なからぬ影響を与えているはずで、注意深い考察が必要だろうと思う。

朝鮮四郡
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/topics_17.htmlより

1.「韓」はなぜ生き残ったのか

上記の地図がBC100年の朝鮮半島だ。

問題は「韓」地方だ。のちに三韓に分離するが、結局任那が滅亡する572年まで韓は韓として、朝鮮に併合されずに残る。これが不思議だ。

北方の軍勢が手をこまねいたわけではない。

衛満に追われた箕子朝鮮王が攻め込み、一旦は支配権を握っている。しかしその次の代になって、馬韓人は箕子朝鮮勢力を駆逐している。

その後、衛氏朝鮮は三代100年にわたり「韓」に直接手出しをしなかった。衛氏に代わり朝鮮の支配権を握った漢帝国も「韓」を温存した。

なぜなのか?

とりあえず、疑問のままおいておく。

2.箕準はなぜ海から攻めたのか

「後漢書」によれば、平壌を逐われた箕準は、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻略し「韓王」となった。

どうして陸路をとらなかったのか。これが分からない。平壌の南がすでに衛満に確保されていたためかもしれない。

はっきりしているのは海路をとれたということだ。それは数千人の兵士と攻撃に必要な海上輸送手段を持っていたことを意味する。

とにかくそうやって馬韓に攻めこみ制圧した。勝利の理由ははっきりしている。彼らは鉄を持っていた。青銅器と鉄器では勝負にならない。

もう一つの理由は、彼らには帰るところがなかったからである。勝たなければ野垂れ死にするしかない、こういう闘いでは人間は強い。

3.「韓」は数千のむだめし食いをどうやって養ったのか

当時の「韓」社会は北九州と殆ど変わりのない生産システムであったであろう。晩期縄文人は多少の陸稲栽培のノウハウはあったものの、基本的には採集・漁労の生活であった。生産性はきわめて低く、自然任せであったと思われる。

長江人の持ち込んだ水田栽培は将来性のきわめて高いものではあったが、現実には手間ばかりかかって、労多く実り少ない生産モードである。

一方で、おそらくメソポタミアで生まれた小麦+雑穀の畑作は、手間いらずで生産性の高いものであった。それは数千のむだめし食いを養うにあまりあるものであった。

輪作の条件さえしっかり守れば、耕して種を撒いて、後は戦争に出掛けても良かったのである。帰ってくる頃には麦はしっかりと穂をつけて食糧を保証してくれる。

春蒔きと秋蒔きを組み合わせることで天変地異にも対応できる。これが畑作のありがたいところだ。

逆に水田栽培でかつかつ生きているような場所は生活の余裕が全く無い。毎日毎日コメツキバッタのようにひたすら働くしかないのだ。こんな場所には漢帝国も箕氏も衛氏も興味はない。

4.箕準侵入の馬韓側から見たメリット

結論としては、彼らは食っていけなかったろうし、だから一代で潰れてしまったのである。

しかしそれを受け入れた馬韓側のインパクトは極めて強いものであったろうと想像される。

先進国のエリートが数千人もの数で一気に飛び込んできたのだ。鉄製武器も手に入った。民衆を支配するノウハウも獲得した。これだけの技術導入が北九州にまで波及しないわけがないと、私は考える。