自民党と公明党は、理念で結び付いたわけではないのです。笑止なことに野党共闘は野合だと自民党と公明党が言っていますが、自民党と公明党以上の野合はありません。1994年の自民党の公明党批判を読み返してみれば、「自民党と公明党以上の野合はない」ことがよく分かります。    佐高信

自民・公明連合こそ「野合」の名にふさわしいと思う。あまり資料はないが、ネットから情報を拾って時系列で並べておきたいと思う。

それこそ吐き気を催すような噂話のオンパレードだが、はっきりした根拠のないものは省略する。肝心なのはそこではなく、これらのキャンペーンで創価学会がねじ伏せられ、「野合」させられ、自民党の(と言うより権力の)いうがままの存在となってしまったことだ。ここから「下駄の鼻緒」の歩みが始まる。

公明党歴史
http://www.nippon.com/ja/currents/d00145/?pnum=2 より

1992年(平成4年) 竹下派(経世会)の分裂。小沢派が自民党を出る。

1993年(平成5年) 総選挙で自民党が大敗し過半数割れ。これに代わり細川連立内閣が成立。公明党は小沢新党とともに細川連立政権へ参画する。

10月 自民党、予算委員会で創価学会幹部の証人喚問を求める。

11月 自民党内に「民主政治研究会」が作られ、集中的に創価学会攻撃計画を検討。

選挙の前後から自民党は反創価学会キャンペーンを開始する。

矢野元公明党委員長が文藝春秋に手記を発表。創価学会の脱税を指摘。これに合わせ、渡辺美智雄が、「自民党はかつて国会で法案を通すために創価学会の脱税もみ消しをした」と発言。

1994年(平成6年)

2月 自民党内の勉強会として「憲法20条を考える会」が設立される。細川連立内閣と創価学会の関係を政教一致であると批判。

会長には亀井静香(のちに白川勝彦に交代)、幹事長に島村宜伸、事務局には安倍晋三も加わる。

5月 自民党「憲法20条を考える会」のイニシアチブで「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」(略称:四月会)が設立される。公明党に批判的な宗教団体や有識者が結集。

設立総会には、自民党の河野洋平総裁・社会党の村山富市委員長・新党さきがけの武村正義代表の3人が出席。
代表幹事に俵孝太郎。宗派としては霊友会、神社本庁、立正佼成会などが加わる。

細川政権のもとで小選挙区比例代表並立制が導入される。自民党もこれに賛成。

7月 細川政権が佐川急便問題で崩壊。これに代わり村山を首班とする自社さ連立政権がスタート。

12月 新進党が創設される。公明党は解散し「公明新党」と「公明」に分党。このうち公明新党が新進党に合流。

1995年(平成7年)

4月の地方選、7月の参議院選挙で自社さ勢力は後退。新進党は参院比例区で第1党となる。

危機感を抱いた自民党は池田大作の証人喚問、池田のレイプ疑惑を追及するなどのキャンペーン。

1996年(平成8年)

1月 自由新報での「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を開始する。

連載は内藤国男と俵孝太郎が交代で執筆。97年10月まで都合82回にわたる。
「権力の中枢に巣食う宗教家至上主義集団」、「宗教の〝衣〟で隠す悪徳商法」、「使命忘れ沈黙続ける〝大〟新聞」など過激な題の記事が相次いだ。

1月 自社さ政権、首相を社会党の村山から自民党の橋本に交代。

2月 『週刊新潮』が女性信者の手記を掲載。

4月 自由新報、「池田会長の女性信者レイプ疑惑」を4号連続で掲載。池田会長の証人喚問を要求。一般メディアでも相次いで創価学会批判が展開される。

信平裁判: 創価学会北海道婦人部の幹部女性が、3度にわたり池田大作に暴行されたと訴える。率直に言えば眉唾訴訟。

総選挙で自民党が勝利する。選挙に敗れた新進党は権力争いや自民党からの引き抜き工作で混乱。

「信教の自由を守る」会が作成した創価学会批判のビラが、5千万部を超えて配布された。作者は内藤国夫であった。

1997年(平成9年)

密会ビデオ問題が浮上。創価学会幹部が山口組系暴力団に「亀井静香を黙らせて欲しい」と依頼したとされるが、その『ビデオ』そのものは表には出ていない。

社会党も選挙で後退したことから、自民党は公明党との連立に向け工作を開始。

9月 自民党都連と公明が会談。狛江市、足立区などの共産党首長打倒で共闘していくことで一致。

10月 社会党の連立離脱の動きに合わせ、自民党は「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を休止。憲法20条を考える会、四月会が活動を停止。

1998年(平成10年)

4月 創価学会、自由新報の「池田レイプ疑惑」報道について、2年後に突如自民党に抗議。自民党はただちに謝罪。

7月 参議院選挙。消費税増税で大敗した自民党は、橋本内閣が総辞職。公明党は新進党と分かれ独自で臨む事を決定。この後新進党は小沢VS反小沢の抗争で勢いを失う。

8月 竹下元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談。創価学会との連携に動く。

11月 分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。このとき公明党は「自公連携、自公連立は考えていない」と表明。

11月 自自連立が成立。

11月 自民と公明が手打ち。公明は沖縄知事選で革新支持をうたいながら、密かに自民候補に票を集める。

1999年(平成11年)

6月 小渕首相、公明党との連立への意向を表明する。これを受けた公明党は、党大会において連立政権への加入を決定。

9月 自民党総裁選。公明との連立に反対する加藤、山崎が立候補するが、大差で敗れる。

10月 公明党、小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が成立する。

2000年(平成12年)

4月 自由党が連立を離脱(扇千景派は政権に留まる)、自公連立政権が成立。

「憲法20条を考える会」が活動を停止。会員の一部が「政教分離を貫く会」を結成。白川勝彦らが代表となる。

2001年

「4月会」が正式解散。