という記事で、下記のごとく記載していた。

一応、日本人起源論はこのくらいで打ち止めにしておこう。
1.縄文人・弥生人・渡来人のうち、弥生人=渡来人という判断には、依然として疑問が残るが、基本的には受け入れる。
2.埴原の縄文人=南方系説は、その後の知見によりほぼ否定された。縄文人は樺太方面から南下した人々だ。
3.縄文人と同じ北方由来の人々が、揚子江流域に広く分布していた。
4.BC1000年以降、弥生系と同じ新たな北方系が東アジア全土に南下した。旧北方系の人々は辺境に追いやられた。
5.日本においては一方的に駆逐されるのではなく、かなり多くの縄文人が弥生系と混交した。
6.米作りの伝播は、これらの流れとは別に考えなければならない。

これについてはいまの知識からすると、相当誤りがある。

書き換えをご容赦願いたい。


1.縄文人・弥生人・渡来人という分類は誤解を生むので、渡来人を「天孫系」と表現する。「天孫系」についてはその存在もふくめて未確認であるが、作業仮説としては有効である。この「天孫系」は弥生人とは明らかに異なる。

2.縄文人の南方起源説はあらゆる証拠が否定する。縄文人(東北出土)のDNAに南方系と共通の要素がふくまれるのは、それが南方系と分かれて間もない古い時期(数万年前)に日本に来たためとされる。

なお沖縄で出土した港川人は南方から北上したものの可能性が高いが、それは縄文人には繋がっていない。

3.縄文人はマンモス・ハンターたる旧石器人と直接つながっており、それは日本海を取り巻くように広範に生息していた。

前期・中期の縄文人はサハリン経由で南下したと思われ、少なくとも関東甲信越まで進出した。

この縄文人は大和政権以後徐々に制圧され駆逐されていったが、なお東北地方の人々のDNAに痕跡を残している。

4.これとは別に朝鮮半島に住む縄文人が、海を渡り九州から近畿にかけて広がった。これを、北方から渡来した縄文人と分けて晩期縄文人と呼ぶ。約4千年前のことである。

晩期縄文人は海洋民族であリ、朝鮮半島との交易ルートを確立するいっぽう、西日本各地に陸稲づくりの技術を持ち込んだが、にも関わらず基本的には漁労・採集の生活様式を維持していた。

5.東シベリアには縄文人に続く第二波の移住があった。彼らはバイカル湖周辺より南下し長江流域まで達した。そしてそこに水田耕作を基礎とする長江文明を築いた。これが1万年前のことである。

この文明は西は四川省、南は昆明省から北ベトナムまで広がった。彼らの一部は山東半島から黄海をわたり朝鮮半島に達した。彼らは先住していた晩期縄文人と混住し、後の三韓地域に水田耕作を広げた。

さらにその一部は晩期縄文人の手引で北九州にわたり水田耕作を開始した。これが3000年前、紀元前10世紀のことである。

これが弥生人であり、その起源は長江流域である。また晩期縄文人との混住という点では、朝鮮半島南部と同じ人種構成であった。

6.5千年前に東シベリアに第三波の民族流入があった。彼らは黄河上流から、また満州から南下し黄河流域を確保した。そして長江文明を取り入れつつ、武力的にはこれを圧迫し、中原全体へと支配域を広げた。

かつて長江文明を担った長江人は、南方、西方、そして東方へと追いやられた。いま長江人が生息するのは昆明、山西、トンキンデルタ、そして日本である。

7.中原に進出した北方系第三世代とはやや位相を異にする人種が南満州から朝鮮半島北部に進出した。彼らは縄文系の朝鮮先住民を駆逐し、弥生人を半島の南端に追い詰め、これを支配した。

これを天孫系という。百済を支配したのは遼東出身の扶余族であるが、いくつかの系統に分かれていたであろうと思われる。

彼らはかつて縄文人や弥生人が渡ったのと同じように海を渡り、九州を支配した。これが紀元前後のことと考えられる。もし兵士集団たる彼らのDNAが解析できれば、それはY染色体に強く現れ、ミトコンドリアDNAには反映されないだろう。

以上の経過をまとめると、日本人の主流派の起源は晩期縄文人と弥生人の混血であり、さらにこれに天孫系の血が混じっているものと考えられる。

北東部においては、蝦夷と呼ばれた中期縄文人が主流派の日本人に呑み込まれたが、DNAのなかにその痕跡を残しているものと思われる。

沖縄も北東部とほぼ同様と思われるが、先住者と流入者の割合は異なるのかもしれない。

アイヌはこれらの概念とはまったく異なり、かなり遅くなってから、寒冷のために無住の地となった北海道に流入してきた種族である。北海道の一部を除けば、日本人の遺伝子の形成には関与していないものと思われる。

随分と違う結論になってしまったが、これが現在の私の見解である。2年くらいしたらまたころっと変わるかもしれない。