昨日の朝日の記事「野党共闘、距離手探り 1人区、民進と共産の態勢に温度差 参院選」を見ると、野党共闘が実現して行った過程がよく分かる。

1.当初、民進党は共産党と共闘など眼中になかった

それが、最後まで共同が難航した佐賀の例で明らかだ。これが共闘における縄文期の遺跡だ。

県連は共産党との共闘に反対だった。5月になって、ようやく候補が決まったが、共産党との共闘は拒否した。共産党の推薦も拒否した。

面目丸つぶれの共産党は、しかし市民グループの仲介で独自候補を取り下げた。しかし出陣式には、共産関係者は出席せず、祝電などもなかった。

共産党の出馬辞退を辛くも実現した市民団体は、24日に民進、共産議員の揃い立ちの街頭演説を行った。しかしこれについても県連は「あくまで市民連合の呼びかけに応じたもの」と共産党排除の方針を崩していない。

ある意味で、野党共闘はこういう出発点から始まったのだといえる。

2.市民の圧力で、やむを得ず推薦を受けるようになった

これが野党共闘の弥生時代段階でその遺跡が岐阜県である。

岐阜では民進党と連合が肉離れを起こした。民進現職候補を推すことで民進・共産・社民3党が合意し、市民団体を立ち上げた。

ところが連合岐阜が共産党の推薦に反発。告示の間際になって推薦だけは受けることが決まった。しかし選挙運動は連合も加わる選挙対策本部と、共産が参加する市民団体が別々に展開することになった。

連合はいまも、「一緒に選挙をやる県民というだけだ」と共産党を突き放している。

3.推薦を拒否したが、その後選挙協力を受け入れるようになった

山形県選挙区は推薦なしという点では岐阜より遅れていたが、その後の展開の中で岐阜を追い越してしまった、これは古墳時代の遺跡に相当する。

ここでも民進党と連合との肉離れが起きている。4月に民進・社民・共産が選挙協力を確認した。ところが連合山形が「自民支持層からも支持を得ないと勝てない」と言って、共産党の推薦を拒否した。共産党は外からの「全面支援」に留まることを余儀なくされた。

ところが、与党から「野合」との批判が強まったことが逆に野党連携を促した。

公示翌日には民進や共産など野党4党が、24項目の政策確認書を締結するという本格的な共闘に乗り出したのである。

4.民進候補を共産党が推薦し、政策協定を結ぶ

共産党が独自候補を下ろす大義名分を民進党側が与える

民進党は共産党の推薦を受け入れ、県レベルで安保法廃止や安倍政権の打倒などを盛り込んだ政策協定を結んだ。

まだ統一候補には至っていないものの、両者が車の両輪となって選挙運動を展開する仕掛けが実現した。これは律令制時代の遺跡である。

ここから野党共闘の名にふさわしい野党連合の時代が始まっていく。奇しくもそれは「国のまほろば」たる奈良県であった。

5.統一候補を擁立し政策協定を結んで各党が平等の立場で参加する

これが近代の姿である。

それは岩手、山口、熊本などで実現している。とくに熊本での統一候補擁立の経験は全国の「野党は共闘」の動きを大いに励ますものであった。

「野党は共闘」の運動は半年の間にこれだけの行程を駆け抜けたのである。振り替えてみるとすごいものだと思う。

共産党がベタで折れたのではない。民進党以外の政党、市民団体が一丸になって地方の隅々まで「野党は共闘」の風をふかせ、民進党と、とりわけ連合幹部の激しい抵抗を鎮めつつ前進してきたのである。

この経験はいずれぜひ教訓化してほしいものだ。