野党共闘=野合論を野党の宣伝として利用するべきだ

自民党はたいへん良い問題提起をしてくれている。

今回の選挙は憲法と戦争法を問う選挙だ。それなのに自民党は憲法など争点ではないと話をそらし、野党共闘は憲法を口実にした野合だと叫ぶ。

ところで「野党連合が野合だ」というのは、「野党は共闘してはいけない」と言いたいからだろう。これに我々が反論するということは、我々に[野党共闘とは何なのか」を説明させてもらうための絶好の機会を与えてくれるものだと思う。

これは大いに「売られた喧嘩を買って」いかなければならない。


ただしそれは、いまの自民党政治をなんとかしたいと思っている人向けの議論だ。(「野合」という下品な罵り言葉の大合唱については、すでに厳しい批判が相次いでいる)

それは「いま自民党は野党連合が野合だと批判していますが、あなたはどう思いますか」という問いかけから始まるべきだろう。

まずは冷静に現状を見るべきだ。与党が圧倒的だ。なんだってできる。現に何だってしている。

誰かが「野党共闘は緊急避難」と言っているが、たしかにそういう面はある。とりあえず憲法改悪という災難を避けるために体育館に集まったとすれば分かりやすい。

私たちをいま支配しているのは、一方では危機感であり、一方では無力感だ。しかし今は危機感が無力感を上回っている。だから、なんとかなるならなんとかしたいと考えている。こういう時は保守も革新もなくおたがい助け合うものだ。そうやって危機感を共有し、無力感を克服するのだ。


これが議論の出発点だろう。

そこから「野党は共闘」という叫びが生まれてきた。なぜならどう考えてもそれ以外に道はないからである。

最初、それは到底実現不可能と考えられてきた。民進党の中にきわめて右翼的な部分がいて、さまざまな形で妨害するだろうと見られていたからである。

それが当初の枠組みとはずいぶん違うとはいえ、選挙協力まで持ち込んでしまった。それは市民(「市民連合」)の圧力以外の何物でもない。

シールズの奥田君はいみじくも、「市民が野党共闘を呼びかけても無理だって言われたけど、でも、できちゃった」と言っている。市民の圧力以外に何かあったろうか。

それがなければ、共産党が土下座して頼み込んだとしても、民進党は首を立てにらなかったろう。なぜなら民進党は共産党と組めば票が減るくらいにしか考えないからだ。それがこれまでの常識でもあったのだ。

民進党右派もそれなりの計算はしたはずだ。そして今回の選挙に限っては、野党連合の枠組みで闘ったほうが票が増えると判断したはずだ。

こうして成立したのが野党連合だ。

だからそれは政党連合であって政党連合ではない。それは野党連合という形を借りた市民連合でもあるのだ。

しかし野党が連合したからといっても、それだけでは勝てるわけがない。そこには勢いが必要だ。今のところまだ、さほどの勢いは感じられない。

自民党から、野党連合は野合だと言われた時は、少々時間はかかっても、上記の経過をるる説明するしかない。

それは巧まずして野党連合の正しい宣伝となる。だから「野党連合は野合だ」と言われたら、「しめた」と思わなくてはいけない。

それにしても自民党は、政権党としてもっと鷹揚に構えていてもいいはずだ。恐れすぎているのか、それともそれが安倍首相のやり方なのか。「野合」という言葉が下品だということさえ知らないのか、吐き気がするくらい下品だ。