弥生時代の王墓(北九州)

考えるほど変な名前だと思うのだが、大和に巨大な前方後円墳が建設された時代を「古墳時代」と呼んでいる。

それは決して「古く」はない。すでに弥生時代の前半、紀元前200年ころから墳墓は出現しているのだ。北九州の墳墓こそ「古墳」というべきで、近畿の墳墓は「新墳」と言うべきだと思うが。

しかも北九州の古墳は紀元ゼロ年前後の話なのに、考古学的な考察が進んでいて、50年刻みくらいで発展の経過が追えるという。

ただ、武末純一さんの文章は、初心者にはかなり読みにくい。

1.考古学者の時代区分と西暦年数の対応

まず考古学者が使う時代区分を覚えないと、時間感覚が頭に入ってこない。これをまず頭に叩き込んでおこう。

弥生時代の大区分は前期、中期、後期である。前期がいつから始まるか、縄文晩期とどう重なるかは前の記事で触れた。しかし国の成立に関してはこれは関係ない。視野に入ってくるのは前期の末からである。

大体のところであるが、紀元前150年が前期末と中期初頭を分ける目安とみられるようだ。したがって紀元前200年から150年までの50年間が前期の末期と考えられる。

次に中期と後期を分ける目安は西暦0年とみられる。ただもう少し後ろに持ってくる人もいるようだ。一応、中期は紀元前150年に始まり、紀元0年までの150年間と考えられる。これが、期前半、中期後半分けられる。中期の前半と後半の境は紀元前100年となるが、これももう少し後になるかもしれない。

後期は前半と後半にわけられ、その境は紀元100年ころと考えられるが、クニの成立の話の視野からは遠ざかる。

以上を表にしておくとこうなる。

BC400~BC200

弥生早期

BC200~BC150

弥生前期前半


BC150~BC100

弥生前期後半

多鈕細文鏡、銅剣・短鋒の細形銅矛・銅戈

BC100~BC50

弥生中期前半

大型甕棺の出現、長鋒の細形銅矛・銅戈

BC50~AD0

弥生中期後半

楽浪郡由来の前漢鏡

AD0~AD100

弥生後期前半

新~後漢前期の鏡

AD100~200

弥生後期後半

 

AD200~250

弥生終末期


これだけ時期が細分化できるのは、主として墳墓の規模と様式、副葬品の変遷、さらに墳墓を取り巻く周辺集落の考察によるのであり、これらの評価は考古学的推論のもたらしたものである。ただこれは一つ一つの墳墓の相対的な前後比較の積み上げから構築されたものなので、積み上げた積み木細工のようなもろさがある。

とにかく2千年も前の墓が、50年刻みで順序立てられるというのはすごいことだ。これは裏返せばこの時期(とくに紀元前200年から紀元0年の間)に墓=権力者の支配のあり方が激変したことを意味することになる。

弁証法的に言えば、量的変化が質の変化をもたらしたと言えるし、史的唯物論的に言えば、生産力の発展がそれにふさわしい上部構造を欲したとも言える。それを分析していかなければならない。


途中ですが、以下は伊東義彰さんのページからの抜粋です。

1.北九州 主要王墓の一覧(古い順)

時期

遺跡・王墓名

BC200前後(前期末~中期初) 吉武高木(早良川)

BC150前後(中期前半)

宇木汲田(唐津市宇木)

BC50前後(中期後半)

三雲南小路(前原市三雲)

AD0前後(中期後半~末)

須玖岡本(春日市岡本)

AD100前後(後期中頃)

井原鑓溝(前原市井原)

AD200前後(後期後半~末期)

平原(前原市有田)

なお、追記では須玖岡本がもう少し時代を下る可能性を示唆している。

2.紀元前100年ころに大変革

一覧を示した上で伊東さんは次のようにコメントしています。

この代表的な六つの王墓の副葬品を比べてみたとき、吉武高木、宇木汲田とそれ以外の王墓との間にはっきりと違いのあることがわかります。
その違いは、銅鏡 の生産地と数において特に顕著に現れています。吉武高木と宇木汲田が、朝鮮系の多鈕細文鏡一面ずつしか副葬していないのに対し、その他の王墓は中国鏡を20面~40面も副葬しているのです。

そしてこの大変革が紀元前100年ころを画期としていることを強調している。

伊東さんはそのことによって、この大変革が朝鮮半島の激動にともなって生じた可能性を示している。すなわち、紀元前108年の漢の進出による衛氏朝鮮の滅亡と楽浪郡設置である。

つまりこの時期に朝鮮半島から逃れた、衛氏朝鮮系かそれに類する北方系の集団が弥生社会の支配権を握ったのではないかとするのである。

そうなると(つまり汲田と南小路の断絶を絶対的なものとすると)、話はこうなる。

紀元前2千年ころに朝鮮半島からの第一次渡来があって、これが晩期縄文人社会を形成する。これに紀元前千年ころから第二次渡来としての長江文明人が水田耕作をはじめ、やがて晩期縄文人を圧倒して弥生式の農耕社会を形成する。

そして、紀元前100年から50年にかけて第三次の渡来があって、弥生社会の上に君臨する。朝鮮北部出身の第三次渡来人は、長江人に対して漢の影響を強く押し出すことで支配者としてのアイデンティティーを示した。

ここまでは私も積極的に受け入れる。それは私の考える「天孫族」と大筋で一致すると思う。ただ、これはあくまで楽しい空想の世界である。

「天孫族」の出自については、その存在そのものをふくめて依然として客観的な確証に乏しい。さらにそれがニニギノミコトとか海彦・山彦の話にスライドしてくると、それまでの論証が説得力を持つだけに、「ちょっと待った」を掛けたくなる。

まずはもう少し丁寧に、王墓だけではなく遺跡全体を評価しながら議論を詰めていくべきだろうと思う。