上海年表を作ったが、それだけは面白く無い。やはり一度読み物の形にして置かなければならないだろう。

上海租界の成立

1842年にアヘン戦争が終わった。新帝国は屈辱的な敗北を被った。その結果華中・華南の5つの港を開き、欧米列強との交易を迫られた。

同時に5つの港に租借地を置くことを認めさせられた。

当時上海は県庁が置かれただけの田舎町であったが、長江の河口に位置することから列強によって特別な重要性が置かれた。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な居留地であった。ただし、その後拡張を繰り返し約10倍に拡大している他にアメリカ、フランスも租借地をおいた。

上海は列強の中国本土への進出拠点であるだけでなく、中国の海外に向けられた貴重な門戸となった。

太平天国の乱と治外法権の確立

開港後10年目に、太平天国の乱が起き、上海に迫る中で上海租界はその性格を大きく変えていく。

太平天国も、その一派で上海を包囲した小刀会も、租借地首脳に安堵を保証した。しかし清国の庇護が受けられないもとでは、租借地を自ら守るべく武装自衛が必要となった。

英・米・仏は共同した統治機構を作り、武装部隊を組織した。それぞれの国の租借地は「共同の租界」として自立した。これにより租借地の自治権は大いに高まった。(フランスはイギリス人の支配を嫌い後に離脱し、独自の租界を形成)

また戦争を避けて難民が一挙に流入したため、当初は長崎の出島のような外国人居留地に過ぎなかった上海租界は、中国人の混住する一つの街のような存在となった。

国際都市「上海」の誕生である。

20年後の1862年、今度は太平天国の本隊が上海を攻めてきた。これは事実上の戦争であったが、上海の共同租界軍は半年に我々たる攻撃を持ちこたえただけでなく、逆に太平天国に甚大な損害を与えた。敗れた太平天国は2年後に崩壊する。

上海が東洋一の大都市に

滅亡した太平天国に代わり北京の清朝政府が戻ってきた。上海の責任者となったのが日清戦争の談判でも有名な李鴻章である。

李鴻章は上海を窓口として文明開化と富国強兵策(洋務運動)に乗り出した。上海租界は列強の窓口として温存されただけではなく、富国強兵のための技術導入の門戸として重視された。

中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設されるなど、急速に上海は中国の最先端都市として発展を遂げる。

これに呼応して列強も本格的な資本注入を開始する。まず香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設し、欧米の金融機関が追随した。

郵便、電報、定期便、鉄道などの交通・通信インフラが整備された。電気が通じ水道が給水を開始した。それらは常に日本の文明開化に一歩先んじていた。東洋初、東洋一などの形容詞は上海のためにあったといえる。

日本の維新政府も列強の東洋における最大拠点たる上海にさまざまなアクセスを試みている。

すでに太平天国との戦闘さなかの62年6月、江戸幕府の雇った千歳丸が上海に来航している。この船には薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が乗り込んでいた。

維新直後の明治6年には、岩倉使節団が米欧歴訪の後、上海の市内を見学している。定期船が運行されるようになり、三井・三菱が上海に支店を開設した。

ライバル日本は官民挙げての文明開化と富国強兵であった。千歳丸も、いま考えれば幕府も随分太っ腹だが、“オールジャパン”みたいな空気があったことの証だろう。

中国の場合はあくまでも封建的な北京の清帝国の枠内の改革に過ぎず、常に反発と揺り戻しがあり、決してスムーズなものではなかった。そこが上海が特殊な都市にとどまった最大の理由であろう。

サンクチュアリとしての上海

上海の統治を行っていたのは、いわば“居留民の自治会組織”である。ビジネスマンの自治組織としての性格を残したまま、それは軍隊・警察を持ち司法機構を持つようになった。

そして戦争のドサクサで混住が認められるようになってからは、中国人という“異民族”支配をも行うようになった。

それらを法文的に整理したのが69年の第三次土地章程である。それは①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の行政機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を柱としている。

これにより工部局という、名前のとおりビジネスライクな、きわめて風通しの良い行政府が形成されたのである。

租界の行政府は去る者は追わず、来る者は拒まず、人間は氏素性を問われれず、他所で何をしたかではなく、ここで何をしたかで評価される。租界の存立基盤にかかわらないかぎり、ずべての人が「善良な市民」なのである。

日清戦争敗北の衝撃

清帝国はその後も負け続けた。アロー号戦争でイギリスに敗れ、清仏戦争ではフランスに敗れた。

それでも遅ればせながら軍の近代化に着手し、東洋の覇者としての意地を見せようとした。しかし94年の日清戦争は最後の誇りすら無残に打ち砕いた。

も体制内改革派の立場に立った皇帝が西太后のクーデターにより幽閉されると、はや頑迷固陋の北京政府に頼むものなしとの声が上がった。義和団の乱が起こり、北京に攻め込んだ。

義和団の乱が列強の介入により挫折すると、反北京の動きは華中、華南に拡大した。上海はその中心となった。

その運動はいまから見るとかなり奇妙なものだった。日本の幕末の運動は尊皇攘夷として始まりやがて倒幕・王政復古と富国強兵に収斂して行ったが、中国の革命運動はとにかくまずもって異人種である清王朝を打倒し漢民族の自立を勝ち取ることに主眼が置かれた。

攘夷はとりあえずは脇に置かれ、まずは自彊が目標となった。そこには反封建の思想も強く盛り込まれた。広い意味では反帝反封建であるが、かなり脇の甘いものであったといえる。

そしてそのモデルとされたのが、戦争の相手である日本であった。日露戦争に日本が勝利するにいたり、日本への幻想はますます広がった。知識人はこぞって日本へとわたり、日本を通して西欧思想に触れることになった。

30年後に始まる日中戦争のことを考えるとき、これは中国人民にとってある意味で不幸な出会いであったかもしれない。

秋瑾 反乱の狼煙

1907年、秋瑾は光復軍を組織し武装反乱を企てたが、捕らえられ斬首されている。

秋瑾は武田泰淳の筆により著しく異なるイメージで伝えられている。秋瑾は馬賊の頭目ではなく中国革命と女性解放のヘラルドとして正当に評価されるべきである。

彼女は清朝の名門の生まれであり、当時としては最高級の知識を身につけている。彼女は上海とその周辺の開放的雰囲気で育ち、北京で義和団の闘争を目撃し、婦人運動に目覚め、解放運動の戦士たらんと決意し、日本にわたり当時最高の女子教育の洗礼を受けた。

当時、東京は中国改革運動の震源地であった。そこで留学生運動の一方の旗頭として、武装蜂起もふくめ最も断固たる立場をとった。

たしかに当時の中国でとりうる唯一の戦略は武装蜂起以外になかった。それはその後の歴史が証明している。

果てしない議論を繰り返す留学生たちに突きつけた匕首の切っ先は、その象徴としての意味を持っていた。

学半ばにして上海に戻った秋瑾は旺盛な文筆活動を開始する。その一方で戦士の結集と教育に意を注ぎ、浙江省に武装組織「光復軍」を組織するに至る。

秋瑾は決してたんなる一揆主義者ではないし、孤立した陰謀主義者でもなかった。

時を同じくして東京の孫文は中国革命同盟会を組織して武装革命の準備にとりかかっている。そして秋瑾の死後5年後の1912年には、武漢の武装蜂起を引き金に辛亥革命が成立する。そういう怒涛の時代なのである。

残念ながら機が熟せぬままに陰謀が発覚し、刑場の露と消えていくのであるが、その思いはまさに中国の近代化を目指す流れの本流にある。

ここで押さえておきたいのは、秋瑾の運動にせよ辛亥革命にせよ、すべからく清朝末期の革命運動は上海を揺籃の地としていることである。それこそが上海が「魔都」となる所以であろう。

東洋一の大都会への成長

そのような中国の革命運動など知らぬげに、上海はますます殷賑を極め、東洋一の大都会へと成長していく。

共同租界中心部では建築ラッシュが始まった。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並ぶ。絵葉書でお馴染みの光景である。バンドに直角に交わる南京路には路面電車が走り、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

フランス租界の表通りは高級住宅街となる一方、裏通りには茶館、妓館、アヘン窟が集中する。まさに「魔窟」である。

 

辛亥革命と上海

秋瑾の死後4年にして清帝国に対する本格的反乱が始まった。11年の11月、武装蜂起が武漢で成功した。ほぼ同時に上海でも軍の反乱が発生した。陳其美将軍の率いる反乱軍はたちまちのうちに上海の華界を支配下に置いた。租界当局(工部局)はこれに呼応して租界内の司法権を全面掌握した。

12年の1月、東京の孫文が上海を経由して南京に入り、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし革命軍の勢いもここまでであった。上海軍は孫文の言うことに従わず、革命派を弾圧、要人を次々と粛清した。いっぽうで北京の軍部との間合いを図った。

2月には清朝皇帝が退位し袁世凱将軍が臨時大総統に就任した。皇帝は退位したものの、これまでの統治機構はそのまま温存された。

中国のもっとも重要な軍事拠点は上海華界の軍事工場軍「江南製造総局」であった。袁世凱はこの拠点を手放すつもりはなかった。

半年にわたるにらみ合いと小競り合いの後、陳其美は上海独立を宣言し、江南製造総局を攻撃した。攻撃は跳ね返され、陳其美は日本に亡命する。

こうして上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる事になり、孫文もまた南京を去った。

1920年前後の上海

辛亥革命の流産後、革命派にとってはしばらく雌伏の時が続く。反清闘争のスローガンは「討袁」へと変わった。

孫文や陳其美はひそかに上海に入り、反乱を企てテロを繰り返したが、17年に陳其美が暗殺されるにおよび、こうした革命活動は困難となった。

もう一つが日本資本の急速な進出である。上海在留外国人の多くを日本人が占めるようになった。日本資本の繊維工場が相次いで建てられ、多くの中国人を使用した。

日本は第一次大戦に乗じて、「21ヶ条要求」を強要した。これにより中国人の反日感情が高まり、それは19年の北京での「五四運動」につながっていく。この闘争は北京政府の弾圧により弾圧されたが、遠く離れた上海では大規模な抗議行動に発展していった。

それは工場労働者、学生、商店の3つの勢力が合体したものであり、近代都市上海の階級的性格を反映したものとなった。そしてその闘争は共産主義運動と結びつく定めにあった。

共産党の設立経過などについては「毛沢東以前の共産党」に詳述してあるため、ここでは割愛する。

企業の上海進出に伴い、日本の文筆家も相次いで上海を訪れるようになる。その嚆矢となったのが21年に新聞社特派員として派遣された芥川龍之介である。

芥川自身はあまり作品を残さなかたようであるが、文士仲間には相当吹聴したらしい。まもなく村松梢風が上海に来訪。2ヶ月にわたり滞在した。帰国後発表したのが『魔都』である。ここから「魔都上海」の名が広がるようになった。

これについては「上海年表 補遺」をご参照いただきたい。また内山書店もこの頃から営業を開始し、文化の窓口として、また中国文化人の庇護役として貴重な役割を果たした。これについては「内山完造の動き」をご参照いただきたい。