日本人の源流を探してというサイトを読んでいくうちに次の事実を知った。

これらの遺跡から掘り出されたのは縄文人だというのだ。一瞬パニックになる。

糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。そこから被葬者の骨が発見された。

支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布している。とくに朝鮮半島南西部に集中している。支石墓が造られた時期は無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。

日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。

しかし新町遺跡から出土したのは縄文人の骨だった。

14体の遺骨のうち、弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。

これについて著者(伊藤俊幸さん)は次のような見解を述べているが、正しいと思う。

最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まった。

来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかった。この最初期の弥生人の到来は、西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えなかった。そう考えた方が妥当だろう。

最初期というのは山の寺式から夜臼式にかけての時代を指し、板付Ⅰ式に先行する時代である。

この後に、板付Ⅰ→Ⅱの弥生人大量流入と人口爆発があるわけで、辻褄は合う話になる。

ただ絶対年代はかなり遡るようで、菜畑(山ノ寺式)が従来紀元前600年と考えられていたのが、現在は紀元前1千年とされている。また、夜臼式に代わる板付Ⅰ式の出現はこれまで紀元前3世紀とされていたのが、現在では紀元前5世紀とされているようである。

結局、縄文人は弥生人に庇を貸して母屋を取られる形になったようだ。ただしそれが非平和的経過をとったのかどうかは定かではない。

伊藤さんは大量流入の可能性を主張している点で、私とは同意見であるが、民族の大移動の原因については若干異なっている。しかしそれはあまり主要な問題ではない。いづれさらに考古学的事実(とくに半島側での進展)が明らかにしてくれるだろうと思う。