ウィキペディアで菜畑遺跡の方をあたってみる。下記の記述が目に止まった。

遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。

イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。

これは従来縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。 

第12層(人口爆発)というのがいつ頃のものなのか、3千年も前のことなのか、そこが知りたいポイントだと思う。

次は日本人の源流を探してというサイト。

菜畑遺跡は1979年12月、唐津市の都市計画街路事業の事前調査で発見され、1年後の1980年12月から本調査が実施された。

遺跡は16の層からなる。

上から8層目からは、板付Ⅰ式と同じ夜臼式突帯文土器と共に、水田址10枚が発見された。

9~12層からは、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式よりも古い山ノ寺式といわれる土器、水田址4枚や「水田稲作」に必要な道具がセットで発見された。

菜畑遺跡

ただし、種子・花粉の解析では、その上の層(突帯文土器・・夜臼式期)になると、組成が急激に変わり、畑雑草が減少し水田雑草が急に増大する。

すなわち、水田稲作は山の寺式期(縄文晩期後半)に小規模に導入され、夜臼式期(縄文晩期末)になって、本格的になったと考えられる。