紀元前数世紀 朝鮮半島南部でコメ栽培を伴う無文土器文化が発生。京畿道では北方系の雑穀栽培と併存していた。無文土器では・壺などが登場。磨製石器も大量に使用されるようになる。

縄文晩期 唐津(菜畑、宇木汲田)、糸島(曲り田)、福岡(板付)に感慨設備を伴う初期稲作文化が始まる。雑穀栽培も並行して行われる。稲粒は朝鮮半島由来のものとされる。石器・土器の主流は縄文式が残る。最も大陸系石器の比率が高い菜畑でも3割程度。

板付Ⅰ式土器の出現。凸帯文土器(夜臼式)から移行。最初の弥生式土器とされる。焼成が変わり、カメの口は凸帯から如意形になり、縄目から刷毛で仕上げされるようになる。出土は唐津・糸島・福岡に限定しており、これら3地域が「飛び地文明」的な様相を帯びていたことを強く示唆する。

板付Ⅱ式への発展。この間に集落は飛躍的に増大。三平野において平野の全範囲に集落が存在するようになる。集落の密度も高くなり、集落間の距離は200ないし500メートルに縮まる。
集落は3,4個の小集団からなり、それぞれの小集団は4,5棟の住居で構成される。小集団は完結した共同生産単位であり、広場や倉庫を保有する。板付Ⅰ式から板付Ⅱ式への発展はきわめて急速であり、人口の自然増による内発的発展というより、急速な人口の流入を強く示唆する。

農具の量は飛躍的に増加し種類も豊富になる。

弥生前期末 三平野における未開地の開拓はピークに達する。集落は平野のほぼ全域を覆い尽くす。集落は単独での存在を許されなくなり、相互に有機的関係で結ばれる。「クニ」への萌芽が見られる。

青銅器時代の始まり 朝鮮からの舶来であるが、その分布には明らかに集落による差が認められる。石器は集落単位から特定の集落で集中的に生産されるようになる。

弥生文化は北部九州の枠を離れ、九州一円からさらに西日本、東海、北陸にその文化枠を広げていく。しかしそこには縄文文明の地域性が投影されている。


以上は下條信行さんの「農耕社会の形成」という文章からの抜粋である。素人の私が言うのも失礼だが、大変優れた文章だと思う。

ただ残念なことに、それが具体的に何年前頃のものなのかが示されない。時間軸が揺らいだまま、事実だけが積み上げられていくので、なんとももどかしい。

この時代、中国にはすでに歴史のものさしがあるのであるから、それとの対比で時期を特定してほしい。最低でもそれが楽浪郡・百済建国の以前なのか以後なのかははっきりさせてほしい。

それは弥生人がなぜ渡来したのかを解く鍵になる。

上記の文章には二つの鍵が隠されている。ひとつは板付Ⅰ式からⅡ式の間に、三つの平野に人口爆発が起きたことであり、もう一つはそれが3つの平野に限定されていたことである。

弥生人はちょぼちょぼと来たのではない。ゲノム解析その他のデータは、日本人の遺伝子を変えてしまうほどの大量の人間の移動が、「民族の大移動」といえるほどに比較的短期に起きたことを示唆している。

考古学者はどうも縄文人が半島文化を受け入れて弥生人に移行していったようなイメージで語っているが、遺伝学的事実は明らかに違うのだ。弥生人は明らかに縄文人とは違う人種であり、それは縄文人と共存はしつつも基本的には縄文人を押しやる格好で西日本各地に広がっていったのだ。

日本の側にさほどのプル要因があったとも思えないので、これだけの規模の人間の移動は朝鮮半島側に何らかのプッシュ要因があったのではないかと想像している。つまり朝鮮半島南部における情勢の激変である。

それが板付Ⅰ式からⅡ式への移行期ではないのだろうか。

板付人は縄文人ではなく渡来した弥生人であり、それが生産の本質と関係ない場面では縄文土器や石器をとりあえずは利用したのではないだろうか。縄文人が弥生文化を受容したのではなく、弥生人が在来の縄文文化を部分的に取り入れたというのが事の本質ではないのだろうか。

ということなので、弥生早期とか前期などという相対的な区分ではなく、紀元前何年ころと表現して欲しいのだが。