文化の多様性とその擁護

現代キューバ文化のキーワード

 

1.グローバリゼーションへの異議申し立て

キューバ文化にはひとつの軸があります。それは「グローバリゼーションとの対決」です.

文化や人々の価値観は,その人々の生活スタイルと切っても切れない関係にあります.そして,世界の人々の生活がまさに直面している事態はグローバリゼーションをおいて他にない,というのがキューバの立場です。

グローバリゼーションは単一文化の支配であり、「偽りの文化」であり,真の文化の対極にあるものです。

単一的な考え方の押しつけは,他の文化を汚し破壊する結果となるしかありません.キューバはその対抗軸として,人々の文化の違いを押し出すのです.

人間同士を比較する時、多様性はたんなる差異ではありません。お互いが人間であり、対等であることを前提としているからです。

 

2.キューバは多様性を主張し続けてきた

多様性の尊重は,アメリカから野蛮な攻撃を受け続けてきたキューバが,必死の闘いのなかで身につけた教訓です.

キューバはある意味でグローバル化の先進国です.百年以上前から,キューバは北の大国によって属領化されて来ました.それは政治ばかりではありません.アメリカ向けの砂糖を生産するために,国土のほとんどが砂糖キビのモノカルチャー(単一栽培)となりました.

国の基本的社会関係が砂糖の生産によって決まる以上、国民の社会生活のシステムも、砂糖の単一栽培に規定された単一なものとならざるを得ません。

また砂糖の消費市場、そして必要な資本の投下をアメリカが担う以上、その文化もアメリカに従属したものとならざるを得ません。

だから砂糖の単一栽培と,ハリウッドの単一支配とは同じ事実の両面です.

55年前に革命が成功したあと,キューバは文化の独自性=アメリカ文化との違いを押し出し、それを維持してきました.

アメリカの武力干渉と経済封鎖のなかで孤立したキューバ は、キューバ人自らの手で独自の生産・輸出のシステムを創造する以外に、生きる道はありません。

アメリカの影響に打ち勝つためにも、 キューバ人自らの手で独自の文化を作り出して、民族の誇りを押し出していくことが求められて来ました。

それがキューバに、否応なしにアメリカ文化との違いをもたらしたのです。

 

3.文化の独自性と多様性

多様性の尊重というのは、それぞれの文化の独自性を認め、違いがあってもその違いを尊重することです。

人間の文化同士には人の顔や肌の色が違うように「差異」があります。

先進国には、劣った人間の作り出す文化は劣ったものに違いないという偏見があります。「未開な土人」の作り出す文化は「野蛮な風習」に過ぎない、という見方です。

先進国の人は、文化の差異を「否定的で、啓蒙により回避、あるいは克服しうる差異」ととらえるのです。それは「文化的人種主義」であり、多様性の主張はそれらとの骨の折れる、ときには鋭い闘い抜きには実現できません。

 

4.文化の独自性は、異質性の突きつけでもある

先進国の側から見れば、文化の独自性は異質性の突きつけでもあります。ムスリム女性のスカーフ着用が問題になりましたが、同性愛や新興宗教など、身近にも異質の文化が突きつけられることはよくあります。

こういう問題を避けていては多様性問題は解決できません。それぞれの違いを独自性としてどう受容していくかが問われます。

では、私たち個人個人にとってはどうでしょうか。

日本ではテレビのチャンネルが10局も20局もあって,放送の「多様性」が保障されるように見えます。しかし、むしろ放送局の数が増えれば増えるほど,その中味は似通ったものになってしまいます.

それは視聴率という市場論理のもとでの,いつわりの「灰色の多様性」でしかありません。

このような「多様性」を拒否しようとすれば,あなたは異質な人物、異端として見られるかも知れません。文化の独自性や多様性を尊重するというのは、なかなかしんどいことなのです。

 

5.文化の多様性を擁護することは闘いである

キューバは「文化の強化」という考えを押し出しています。それはアメリカ的な文化の押し付けに反対し、キューバ文化独自性を守る闘いです。

それと同時に文化の差別化に反対し、文化の多様性を守る闘いでもあります。そして市場経済の論理が文化をモノカルチャー化することに対する闘いでもあります。

その闘いの本質は、資本主義的グローバリズムのシステムとの闘いにあります。

精神労働と肉体労働の分離,都市と農村,さらに言語や人種間の格差が、実は多様性を拒否する側の最大の論拠なのです。

分裂した社会の片方の側の文化を正統とし、一方を異端とすることで、階級支配を貫徹することがグローバル文化の本質です。

このような支配者の振りまく「選民思想」と対決することは、たとえ複雑で息の長い闘いではあっても、欠くことのできない戦略的課題です。

独自性の主張は画一化された先進国文明への異議申し立てです。そこには灰色の先進国文明を生み出した社会システムへの批判が含まれています。

 

6.多様性擁護の実践

はっきりしていることがひとつあります。力の結集なしに多様性は守れないということです。

そして主要な実践は、文化を担う人々の多様性を守る協同の取り組みにあります。いっぽうで、独自性を持つ各文化的集団が、自覚を持って主体的に行動することにあります。この2つがともに大切なのです。

そして独自性を持った一つ一つの文化が,同時に「多様性」を擁護する主体となることによって,たんなる烏合の衆ではなく,共同意志を持つ集団として形成されるのです.

このような共同主体による集団的実践を基礎として、初めて「独自性」が生きたものになり,真の多様性が生まれます。

 

7.文化的多極論と多様性

このような共同性を否定してしまうと、それは文化的多極論になってしまいます。それは個々の文化が相互に無関心でいること,あるいは無関心を装うことを前提とせざるをえません.

ただし文化行政のレベルでは,安易な「集団主義」の導入こそ断固として排除すべきであり,話は違ってきます.

それは1961年に,革命的文化人相互の激しい論戦を踏まえてカストロが下した結論でもあります.

 

8.真の多様性

多極論ではない真の多様性とは、さまざまな主体の集団的な実践を踏まえたものです。

それは、多様な集団の支えあいに基づいた「生き生きと輝く独自性の集合」です。

それは、それぞれの文化が発展していくことによって実現する多様性です。文化主体同志は相互に接触するなかで,変容を遂げていきます。

この共同性,自主性,実践性をふくんだ多様性こそ,キューバ文化の真髄ともいえるものです。

 

9.困難な時期における文化運動

以上が総論ですが、キューバ文化を語る上では、どうしても1989年からの「特別な時代」(経済の困難期)について触れなければなりません。

ソ連・東欧が崩壊した後の時期がいかに困難であったかは、別の文章を見てもらうしかありませんが、経済が困難な時に文化がどう扱われるかは、その国の文化度の真のバロメーターといえるでしょう。

2000年に札幌で講演したリセッテ・ビラは、当時を振り返って次のように語っています。

(文化・芸術の分野では)混乱した状態になりました.その展望はダンテ風なものでありました.未来という言葉の意味は失われました.これまでの社会プロジェクトの正しさ,長所についての確信も失われました.そして多くの人が降参していきました

しかし,私たちはホセ・マルティのように考えることを選びました.“空腹は過ぎ去る.しかし不名誉は過ぎ去ることがない”

私たちは人々の背中を押し,夢中で働きました.そして結果はご覧の通りです.革命の始まりから90年代の終わりまでに,わが国の状況は目覚しく改善しました.特に芸術の分野でそれは顕著です

キューバ芸術は世界的に知られるようになり,過去や現代の偉大なるクリエーターが賞賛され,スポットライトをあてられています

文化を創造的活動という側面から見た場合,そこには創造のための物質的手段が不可欠です.

経済収縮の結果,その物質的手段が失われました。文化は萎縮してしまいました.そのときキューバは「まず最初に守らなければならないものは文化である」と決めたのです.

なぜなら、文化と経済はキューバという体の2つの部分だからです。もし文化を失えば体は死んでしまいます。

もう一つ、いざというとき国の最も重要なたくわえとは豊富な文化だからです。

そしてもうひとつ、文化というのは私たちの「子供」なのだからです。そして子供は成長するのです。

10.最後の言葉

もう一度、ビラの言葉をあげておきます。

育ちつつある文化は、決してたんなる受け身の存在ではありません.

それは人類の人間的な発展を推進するために大きな役割を果たすのです。

それは,人間の持つ知的精神が盲目の実利主義に打ち勝つことです。

「帝国の哲学」は不平等,裏切り,命がけの競争を「自然の掟」と託宣しました.私たちはこの挑戦に対して積極的かつ人間的な発展の理論を対置しなければなりません.

そしてそのために文化が果たすべき精神的・道徳的・理念的な役割を,しっかりと理解しなければなりません

いかなる階級に属そうと,すべての知的なキューバ人の最重要な関心事は,より高い精神性へ人類の発展をもたらすという「文化の持つ力」を地球上に広めることです.