中国新聞の原爆年表を眺めているうちに、注目される記事が見つかった。
1968/5/29
劇団民芸が原爆医療に打ち込む一開業医を主役にした「ゼロの記録」を公演。大橋喜一氏作、早川昭二氏演出
というものだ。
どんな劇なのか分からず、ただ開業医の視点というのが面白そうで、詳しい内容を知りたいと思い、ネットで探してみた。
それで探したのが、以下の記事。
神戸演劇鑑賞会のホームページに、平田康氏(京都橘大学名誉教授・英文学者)の戯曲にみる核の恐ろしさ ~広島・長崎からチェルノブイリまでと題する講演記録が掲載されている。
記事によると以下のとおり、
平田康氏が「非核の政府を求める会・兵庫」の第20回総会(2006年2月26日)での記念講演を採録したものです。

この中から「ゼロの記録」に関する部分を紹介しておく。

『ゼロの記録』は、大橋喜一の綿密に調べた資料に基づく実にリアルな戯曲と、早川昭二の妥協のない演出と民芸俳優人の迫真の演技による舞台が、とても鋭く 心に突き刺さったものでした。
広島の廃墟の街を背景にした第一部は、被爆直後の8月10日から翌年春までの半年間。後にヤブピカと呼ばれる開業医小津や病理学者の平岡、それに博愛病院の医師たちが、全く未知だった原爆症による被災者たち、それには自分自身も含むわけですが、その想像に絶する症状との格闘が描かれます。
彼らはその謎の正体が放射線であるのに気づく。ところが進駐してきたアメリカ占領軍は原爆に関する報道を禁止し、解剖資料を含む被爆についての あらゆる資料を没収し始める。
白血球が減少して死を前にした医師が叫ぶ、「この街の死亡者のデータは、医学的にも役立つが、同時に軍事的な秘密も含んでいる…自分たちの死を軍事的資料にするな。」 
翌年春になると新聞には、「原爆症いまはなし」の記事が出るが、血液疾患として原爆後遺症が姿を見せ始めま す。

 バラックの街を背景にした第二部
「平和平和と山車が街をねる」2年後(1947年)の8月から1953年まで。ドラマは2つの流れに分かれる。
原爆の 悲惨さを詠んだ短歌の歌集を出版するのには、占領政策との厳しい対決を覚悟しなければならないと知った詩人は、労働者と連帯して反戦抵抗運動へ傾斜していく。
朝鮮戦争が勃発し、原爆をトルーマン大統領に使わせないと訴える「ストックホルム・アピール」の署名が妨害にもめげずに拡がり、1950年8月6日に は、弾圧の下で非合法平和集会が開かれる。
一方で、広島に設置されたABCCは、被災者の血液を採るが診療は行なわず、一部の医師たちの期待は裏切られ、 原爆症の研究は占領軍の監視の目をくぐってひっそりと行なわなければならなかった。「ABCCの本質は医療機関である前に、軍事機関の下請けではないのか?」 
講和が発効するが、日本に真の独立と自由がもたらされたのか? 
医師たちは原爆対策協議会を組織するが、治療資金はゼロに等しく、それを確保するために妥協止むなしと考える医師と、医学的真実のためにはABCCや厚生省と対立しても仕方がないと考える医師が対立します。
若い病理学者がつぶやく、 「あらゆる科学が…医学研究までが、核戦略に組みこまれる時代…。」 
心ならずも遺体をABCCに売り、その金で遺族が生活しなければならない被爆者の現 実。「患者に…安静にせい、ということは、一家で飢え死にせい、ということになる。」 
普通のドラマのような完結はありません。現代の矛盾への問いかけが 残るだけです。

 これは「発見と認識」のドラマと言われ、観客を大きな力で「ヒロシマ」体験へと引きずり込むものだったと言えます。あの悲惨な出来事を、単に一つの地域にいた人びとの体験に留めずに、日本人全体の民族的体験に拡げ深める強い推進力となったものでした。

皆さん,観たいとは思いませんか。

ぜひ再演を期待したいものです。