話がどんどんややこしくなっている。読者の皆様にはまことに相済まない状況になっている。

一応これまでの思考経路をおさらいしてみる。

1.「謝罪」議論の胡散臭さ

オバマの広島での演説は素晴らしいものだった。少し文学的にすぎる箇所もあるが、素直に感動した。

ところがマスコミの報道は、やたらとオバマが謝罪するかどうかに話を持って行こうとするので、何か意図的なものがあるのではないかと抵抗を覚えた。

謝ればなお良いが、今回の訪問の評価をそこに持っていくのは間違いで、とにかく来ただけでも良しと考えなければならないと思う。しかも演説の前、ホワイトハウスの報道官が簡単なステートメントに留めると強く釘を差していたから、ほとんど期待していなかったというのが正直なところだった。

しかし、演説はかなりの長時間にわたり、まごころのこもったものであった。「謝罪」こそないが、核廃絶への確固たる姿勢は十分うかがえた。深澤さんの言葉を借りるならば、それは慰霊碑の碑文の精神と響き合ってたように思える。

2.オバマ演説と慰霊碑の碑文

言うまでもなく、慰霊碑の碑文は我が核廃絶を目指す運動をすすめる上での精神的拠り所の一つとなるものである。それは、我が核廃絶の運動(闘いというべきか)をすすめることが何よりもの慰霊となるということである。それは人類史的な意味での我々の「過ち」に対する償いである。

今なお核に固執する勢力がある。その敵をいかに包囲し追い詰めていくかが、今我々に問われている。しかるがゆえに、運動の側には、過去において核兵器を使用した「過ち」をもって未来永劫の敵とはしないという柔軟性が要請されている。そこには「あなた方の犯した罪を、(同じ人類の一員として)私たちも担いましょう」という統一戦線的な発想がある。大事なのは今であり、未来なのだ。

3.鍛えられ強くなった碑文の精神

その後調べていくうちにわかったのだが、この「過ちは二度と繰り返しませぬから」という誓いが当初からそのような高みにあったのかはかなり疑問である。むしろ70年代の右翼による攻撃から碑文を守る運動の中で、それが非核勢力の中核的精神として昇華され、大方の合意となっていったというのが正しいのだろうと思うようになった。

「小異を捨てて大同につく」という言葉がある。原爆の使用責任は決して「小異」ではなく、ゆるがせにできる問題でもない。しかし核兵器の廃絶という人類史的課題に比べれば「小異」といえないことはない。だからこのスローガンは「論理的に正しいか否か」ではなく、「実践的に正しいか否か」という問いに対する答えなのである。

そしてその正しさは、オバマの演説により、部分的には証明されたと見て良いのではないだろうか。