鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

グーグルさんありがとう。「原爆慰霊碑の碑文とオバマ演説 その1」をグーグルで検索して、リンクをクリックすると「その2」が出てくる。ところがリンクの表題の右側についているキャッシュという逆三角を開くと、「その1」が出てきた。
読み返してみると、その後の勉強の結果、手直ししなければならないところがいくつか出てきた。そこで再編集したうえでアップロードすることにする。


Diamond On Line 5月30日付の記事 オバマ広島演説に込められた原爆慰霊碑文の精神

は、慰霊碑の碑文と照らし合わせならオバマ演説を読み解くという、格調の高いものとなっている。筆者は編集長の深澤献さん。

いくつかの演説の断片を引用した後、深澤さんは次のように問題を設定する。

来日前に焦点となっていたことのひとつは、原爆を落とした当事国として謝罪があるかという点だった。演説の中には謝罪を示す言葉はなかったため、いまなおそれを問題視する声もある。

そして、深澤さんは慰霊碑の碑文、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を持ち出す。

そして、この碑文が被爆者に対する最大の謝罪(の誓い)であり、その精神はオバマ演説に引き継がれている、と主張する。

そのうえで、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の誓いが最大の謝罪(の誓い)であることを、歴史的に論証していく。

おそらく、もっとも的確にオバマ演説の本質を引き出した文章のひとつであろうと思う。

本文を読んでもらえばいいだけの話だが、文章が入れ子構造になっていて、慰霊碑の碑文を巡る論争が分からないと、オバマ演説の意義がわからないという仕掛けになっている。

そこで「慰霊碑の碑文」論争について、文章の順に従って説明しておく。


1.慰霊碑の碑文

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」は、英語にするとこうなるそうだ。

Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.

大変格調の高い、難しい英語で、アメリカ人にはたして分かるのか、とさえ思う。作者は雑賀忠義さんという方。当時の広島大学教授で英文学者。さもありなんと思う。雑賀さんも被爆者だった。

この慰霊碑は1952年(昭和27年)に建てられた。その時に碑文論争が起きている。

1.端的に言えば「なんや、このけったいな文句は」という感想である。筆者の深澤さんも少年時代にそう思ったそうだ。

たしかに自分が「過った」ようにも読めてしまう。「俺はいったい被害者なのか、加害者なのか?」と、碑を前に首を傾げる市民がいたとしても不思議ではない。

2.首を傾げるだけではなく、怒っちゃった市民もいるらしい。

地元紙「中国新聞」には、「原爆投下の米国の責任を明確にせよ」とか、「過ちは繰返させません からとすべきだ」との投書が掲載されたそうだ。

3.浜井市長はこう言っておさめようとした。

誰のせいか詮索するのではなく、こんなひどいことは人間の世界に再びあってはならないのだから、「人類全体」が過ちを繰り返さないということなのだ。

しかしこれはかえって火に油を注いだ。浜井発言は1年前まで日本を占領していた米国に慮ったものとも言われるが、これでは東久邇内閣の「一億総ザンゲ」論へとまっしぐらにつながってしまう。

4.雑賀さんの発言(論争への参加)

この発言はこの記事で初めて知った。そのまま引用する。

広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい 立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない

いささか感情的とも取れる発言であるが、これには経過がある。

東京裁判でいまや右翼の御用達となったパール判事が広島に来たのだそうだ。そのとき、慰霊碑の前で碑文の内容を聞くや、「原爆を落としたのは日本人でない。落とした者の手はまだ清められていない」と語った。

これが雑賀さんの逆鱗に触れたのだ。「誰のせいだ。俺のせいではない」と議論すること自体がせせこましいと憤ったのだ。

5.論争をまとめてみると

雑賀さんは「恩讐を超えて、核廃絶を目指せ」ということで、それが最大の慰霊(謝罪)なのだと主張している。

ただ、「恩讐を超える」ところだけ強調してしまった嫌いがないとはいえない。「広島市民であると共に世界市民であるわれわれ」を強調するあまりに、「世界市民であるけども、広島市民であるわれわれ」の特殊性を尽くしていないように思う。

原爆の苦しみは8月6日で終わったのではなく、そこから始まったのであり、1952年にはそのただ中にあったのであり、その苦しみ(実相)をもっと突き出さなくてはならなかったのではないか。

6.現在の「碑文」の解釈

現在、広島市は碑文の意味について次のように説明している。なお、著者深澤さんは「広島市の見解は一貫して、慰霊碑建立当時と同じだ」と書いているが、浜井市長の発言よりは明確に前進していると思う。

原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られています。
碑文の中の『過ち』とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています
原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓う のは、全世界の人々でなくてはなりません。

これを論争を踏まえて私なりに読み解いてみると、

①原爆の犠牲者の位置づけ

原爆の犠牲者は、いまやヒロシマの犠牲者ではなく日本の犠牲者でもなく、人類最初の原爆による人類最初の犠牲者だ。

原爆の犠牲者は、いまや、そのような高度に抽象的なものとして位置づけられ、祀られるべきだ。

キリストがユダヤ人であるかどうかは問題ではない。キリストの死には「ユダヤ人がローマ人によって殺された」という事実はある。しかしそれが辺縁的事実にすぎないのと同じだ。

②原爆の犠牲者は「過ち」を責めている

「過ち」問題は、ここをしっかり把握すれば、自ずから明らかになる。

むごたらしい死と、同じようにむごい生の末の死は、アメリカではなく人類全体、生き延びてきた私たちを責めている。それは「過ち」だったと。そしてずっとこれからも「過ち」であると。

そして「過ちを繰り返さぬ保障」としての核兵器廃絶を求めている。そのことによって犠牲者は平和(をもとめる人々)のいしずえとなっている。

しかし犠牲者はまだ人類史のいしずえにはなっていない。核兵器が廃絶された世界が実現しないかぎり、彼らは「過ち」を責め続けるだろう。

③謝罪とは核兵器を廃絶すること

謝罪と核兵器の廃絶はイコールではない。しかし核兵器の廃絶に向け決意することは、犠牲者の責めを受け止め謝罪することの重要な一部をなす。

この場合、犠牲者の責めを受け止め続けることが何よりも重要であろう。「辛かったでしょう。分かっていますよ」という声掛けが、「安らかに眠って」もらうための条件だ。

これが慰霊碑の碑文の精神である。

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