1949年

5月 広島平和記念都市建設法が成立。7月には憲法第95条による初の住民投票を経て公布される。

1951年

2月 平和記念公園に戦災死亡者の碑の建立決定。原爆死亡者の名簿をおさめることなど計画。公式には「広島平和都市記念碑」だが、通称の「原爆死没者慰霊碑」がよく知られる。

慰霊碑のデザインは、イサム・ノグチの案に一旦は内定した。しかし岸田日出刀らが、日系アメリカ人というのを理由に強硬に反対したため、ノグチ案を生かして丹下が再デザインした(ウィキペディア)

1952年

広島市長浜井信三が慰霊碑を発起する。

この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなることを目的とする。

7月22日 慰霊碑の碑文が決定。広島大学教授の雑賀忠義が浜井信三広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。雑賀さんは「言葉も書体も市民感情を表すように努めた」と語る。

中国新聞: 雑賀さんは旧制広高の英語の名物教授で、はげ頭に骨張った顔の、ひょうひょうたる人物。「仙人」とも呼ばれた。教え子で市長室主事だった藤本千万太さんが、碑文に悩む浜井市長に紹介した。
山田風太郎「同日同刻」: 真珠湾攻撃の報道を受けたとき、…朝の授業中の雑賀教授は廊下に飛び出して、頓狂な声で『万歳』を叫んだ。

1952年8月2日、広島市議会で碑文に対する質問。『過ち』は誰が犯したものであるか」について議論となる

浜井市長の答弁: 原爆慰霊碑文の『過ち』とは、戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している。


1952年8月6日 原爆死没者慰霊碑の除幕式。当初はコンクリート製であった。本来設計では慰霊碑をすかしてドームまで見通せるはずが、被爆者のバラックが透かして見通せた。バラック隠しの幕を張って式を挙行した。57902名の名簿が奉納された。
 
浜井市長の挨拶: この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる。

8月10日 『朝日新聞』の「声」欄に投書。最初の異議となる。(ウィキペディアでは中国新聞への投書となっている)その後、中国新聞に碑文に関する数篇の投書が掲載される。

後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。
…戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思う

8月 浜井市長が反論への見解を表明。「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない」と、主張する。(これを「過ちを繰り返さない」主体が人類全体であるとする主張であり、現在の広島市の見解に通じる、とする見解がある)

8月 識者の意見が中国新聞に掲載される。

 <作家・堀田善衛氏>「『過ちは繰返しませぬから』。だれがいったい過ちを犯したのか。答はいろいろあるかも知れない。しかしそれにしても、もしこれが いつもいつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立った誓いであるならば『過ちは繰返させませんから』でなければならないのではなかろうか」

 <原子物理学者・武谷三男氏>「私は広島の人に、どういう風にして過ちを繰返さず、原爆で死んだ人をやすらかにねむらすことができるかをききたい。私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだと思う」(矢内原伊作の意見は略)

11月3日 ラダビノード・パール(Radhabinod Pal 極東国際軍事裁判の判事)が講演のため広島を訪問。

4日の講演: 広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか。
 アメリカ軍人を犠牲にしないためなら、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活 をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。われわれはこうした手合と人道や平和について語り合いたくはない。

11月5日 パールが広島平和記念公園を訪問。原爆死没者慰霊碑の碑文を通訳を通して読む。パールは碑文を「一億総懺悔」と読み批判する。原爆への恨みを公言できなかった被爆者らは、バールの言葉に共感を持つ。

この碑文に『過ちは再び繰返しませんから』とあるのは、日本人をさしている。それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものの手はまだ清められていない。
過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するなら、それは非常に立派な決意だ。日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊をボウトクするものである。これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかったと私は思う。

(パールの発言には以下の部分もあり、これについては首肯できない)

この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
・・国民がその良心に重い罪の悩みをもっていれば、いかなる国民も進歩、発展はないということをよく記憶せねばならぬ。

11月04日 『中国新聞』に濱井信三広島市長の談話が掲載される。(4日となっているが、5日のパール発言を受けてのものであろう。焦っているから、「地下の英霊」などという言葉が飛び出す)

過去の戦争は明らかに人類の過ちであった。
私は碑の前に建つ人々がだれであろうと『自分に関する限りはあやまちは繰り返さない』という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であると思う。
また現在生きている人たちがそれを実践したとき、はじめて地下の英霊は安らかにに眠ることができるものである。
碑の前に対して「だれの罪である」と個人をつかまえて詮索する必要はないと思う。

11月10日 雑賀教授、パールに抗議文を送る。

『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。

11月11日 雑賀教授が中国新聞に寄稿。(おそらく「抗議文」と同内容)

パル博士の考えは狭量で、そのような立場からは原爆の惨禍は防げない、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びである。

11月 雑賀教授、広島大学教養部での講義で碑文の内容を説明。

碑文の英訳は「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」である。
主語の“We”は「広島市民」であると同時に「全ての人々」であり、「世界市民である人類全体」を意味する。

雑賀、市広報紙に碑文解説を書く。「20世紀文明が犯した最大の過ちは広島の原爆であった」とする。(日付け不明だが、少し頭が冷えてからのものであろう)

57年 雑賀教授は碑文論争から5年後の定年退官の際、「広大新聞」でこう語っている。「全世界よ、全人類よ、日本の方を向いて『右へ倣え』。碑文は全人類への号令である。こんなはっきりしたことが読み取れないのですか。頭が悪いですね」