オバマ演説は「謝罪論争」への総括的結論

まずオバマの広島訪問について、私の正直な感想をいくつか上げておこう。

1.それは素晴らしいことであった。現職大統領として訪問したこと自体が大きな意義を持っていると思う。

2.演説は少々長ったらしく、少々抽象的なものだった。しかし後からいろいろ考えると、その必然性が見えてきた。

3.横でニヤニヤとする安倍首相の姿はたいへん目障りであった。いつもなら、彼の姿を見ただけでチャンネルを切り替えるのだが、今回はそうも行かず、こみ上げる不快感をこらえるのが辛かった。

4.メディアはアホな韓国人しか映さないから、そして私はまともな韓国人を知っているから、それはメディアのアホさ加減の投影にすぎない。

5.中国には困ったものだ。日本と同じようにアホが政治を仕切っている。王毅外相はこんな人ではないはずだが。

と、ここまでなら酒飲み話で、なんの苦労もなくスラスラと思い浮かぶことだ。

しかし一連の経過の中で、何故か「謝罪問題」が大きく浮かび上がってきた。

そしてメディアは広島に来たオバマが「謝罪」するかどうかに関心を集中させた。日頃これだけ核問題に無関心だった連中が、突然「謝罪」を求めるのはいかにも不自然だ。

なぜか? 誰がそうさせたのか?


「謝罪」問題では数年前にこういう事件があった。

オバマは大統領就任後の2009年に初来日した。当初、オバマは広島を訪問し原爆投下に対して謝罪するつもりで、その可能性を打診してきた。

ルース駐日大使を通じて打診を受けた藪中外務事務次官は、これを断った。断った理由が「時期尚早」というのだから分からない。

察するに、日本政府が原爆にとんと無関心で知らんぷりをしていたから、オバマにそんなことされると立場がなくなる、ということではなかっただろうか。

そういえば、日本政府が原爆投下をもたらしてしまったことについて「謝罪」したとは聞いてないなぁ。

これがウィキリークスで暴露されてしまったのだ。

the idea of President Obama visiting Hiroshima to apologize for the atomic bombing during World War II is a "non-starter." it is premature to include such program

これが藪中発言の骨子だ。

この時の首相は安倍ではなく麻生だ。しかし安倍晋三がオバマの広島訪問を快く思っていないことは明らかだろう。それでいてちゃっかりパフォーマンスとしては利用する、その心根は見上げたものだ。

おぉ嫌だ。こうやって書いているだけでも身震いがする。


となれば、「謝罪要求」が日本政府側から出たとは考えにくい。

では、それは広島市民の要求だったのか?

オバマ訪問の直前に共同通信が実施した被爆者へのアンケートで、謝罪することをもとめたのは16%だった。78%は謝罪は不要と答えている。

もちろん被爆後70年を超えて、今も8人に1人が謝罪を求めているという事実は重い。残りの7人にもその気持は投影されていると見るべきだろう。

しかし肝心なのはそこではない。「三度許すまじ」の気持ちを理解し共有してもらうことだ。だから「謝罪」云々で袂を分かつような事にはなってほしくないのだ。だから涙を呑み、恨みを含んでいるのだ。

原爆碑の銘文はこうなっている。「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」

これについては当時からいろいろな議論があった。「あやまちを犯したのは自分たちなのか?」

絶対にそうではない!

しかしあやまちを繰り返さぬ責任、繰り返させない責任はある。死者に対して生残ったものにはその責任がある。そう読むべきだということで決着は付いている。

そのことで広島市民は死者に対して「謝罪」しているのである。

そして、その「凛とした思い」を日本政府、アメリカ政府、全世界の人々に共有して欲しいのである。

そこにオバマ演説は応えている。それが演説が長くなり抽象的になった理由なのだ、そう思う。