伊藤ふじ子 私の二大発見

二大発見というとマルクスの史的唯物論と剰余価値ということになるが、私のはそんなに大げさなものではない。

一つは、「空白の一時間」というもので、密かに自慢している。

これは窪川稲子のレポートが細部にわたってかなり正確であるにもかかわらず、時間の記載が誤っていることだ。これは以前書いたとおり、人間の記憶というのは静止画像として保存されているからである。その場面が目の前にあるかのようにまざまざと想起されるのに、それがいつの事だったかと言われるととんと分からない。そういうものなのだ。古事記の世界もそういうふうに理解すべきだ。時間感覚があやふやだからと言って、それが嘘だとはいえないのである。

窪川は中条百合子の家で晩飯をゴチになっていた。そこに多喜二虐殺のニュースが飛び込んできた。多分壺井栄からの連絡ではないか。それから前田病院に電話したら「もう出た」という。とるものもとりあえず馬橋の多喜二宅に向かう。

おそらく、その時点では遺体を載せた車はまだ出発していないはずだ。下落合の中条宅から西武新宿線、中央線と乗り継いで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこから馬橋の多喜二宅まで歩いた。どう見ても2時間はかかる。

そして10時半ころに多喜二の遺体が到着した直後に、多喜二宅に入る。中条、壺井らとともに死体の検案を介助した。

検案を担当した安田徳太郎と中条らとともに多喜二宅を辞したのは夜の11時半過ぎであったろうと思われる。

当時、終電が何時ころかは知らないが、省線電車に間に合わせようと家を出たのかも知れない。

肝心なのがここからで、稲子らは「踏切の向こう」で、多喜二宅に向かう原泉、貴志山治らと行き逢っているのである。

この「踏切の向こう」というのがずっと分からずに居たが、馬橋の地図を知ったことから、話が見えてきた。

当時の馬橋は新興住宅地であり、道は昔の野道がそのままであった。多喜二宅に行くには阿佐ヶ谷の駅の北口に一旦出て、そこから東南に進む道を通って、線路を横切って行くことになる。

だから稲子のグループは踏切を越えたところで、貴志らのグループと行き会うことになるのである。

稲子らがいなくなって、貴志・原らが到着するまでの間、短ければ30分、最大で60分位の「空白」があった。

もちろん完全な空白ではない。母セキら家族はずっといたし、小坂多喜子の夫婦も居たはずだ。

あるとすれば、突然の闖入者であるふじ子に圧倒されて座を外したのであろうということになる。そして見も知らぬふじ子と遺体だけにしておくわけにも行かず、江口が立ち会っていたのであろうと想像される。

これが第一の発見である。

第二の発見は、ふじ子の句集の中の2首である。

句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。

以上二点については、私のいささかの自慢である。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子