自然の弁証法について

以前、フランクフルト学派の哲学者でシュミットとかいう人の本を読んだことがあって、エンゲルス批判をしていたのが、ずっと頭の片隅に引っかかっている。

要するに、シュミットは弁証法というのは認識論・実践論に関わる理論なのであって、主体と客体との関係なのだと言っている。

客体そのものは我々の理論の及ばぬ範囲で動いているのであって、我々のできるのはただその客観的存在を承認するのみなのだということだ。

だから自然の弁証法という考えは、あれこれと都合の良い現象を並べ立て、賢しらに述べ立てているにすぎない。我々は我々と自然の関係のみについて、我々の認識の発展形式のみについて論じるべきだという主張になる。

実はこれは日本でも同じような議論があって、戦前の唯研でも加藤なんとかという人が客観的唯物論と言われて批判されていたような気がする。

どうもまったくあやふやな記憶を頼りに述べているので、お恥ずかしい限りだが、私もその時はシュミットの側に軍配が上がるなと感じていたのであった。

なぜかというと、実はその時の議論はスターリン哲学が背景にあったからである。

しかも今考えるに、そのスターリン哲学たるやきわめて程度の低いものだったのである。

その批判の切り口の一つとして、主体性の強調論があったから、論者の思いとしてはきわめて説得力があったのである。

しかし今やスターリン主義はもはや昔話となった。だからこの問題はもう一度考えなおしても良いのではないだろうか。

弁証法に過剰な能動性を与えるのではなく、自然の理解の仕方として弁証法はゆるぎのない地位を占めていることを確認しても良いのではないかと思う。

確かに自然は弁証法的に動いているのである。

私はそう思うのだが、それは弁証法という言葉の理解が違っているからだと思う。

私の考える弁証法とは以下の様なものである。

1.唯一の絶対的なものは時間である。

我々は4次元の世界(時空間)に住んでいる。そのうち縦・横・高さについては我々は可視化できる。したがって相対化できる。しかし時間については可視化できない。人間は現時点しか経験できないし、操作もできない。

想像では、時間軸を相対化できるような5次元の世界を想像できる。その世界ではビッグバンなど、アキレスと亀の笑い話になるだろう。

2.すべての事物は時間によって規定されている。

1.のテーゼを現実世界に当てはめたものである。我々が相対的に可視化できる「時間」は、時間軸の微分形態である。

どこかを起点に仮定(措定)し、それとの相対的な前後関係に事物を位置づける。そうすると事物は相対的に固定化され、可視化できるのである。

これが事物である。

3.事物は過程である

2.のテーゼを認識という側面から見たものである。これが弁証法の最初の規定、したがって最も根底的な規定になるのかもしれない。

ここで「過程」としたのは運動一般とエネルギーの違いがよくわからないからである。

よくわからないが、エネルギーというのは運動が積分されたもののように思える。しかし運動が積分されればエネルギーになるのかはよく分からない。

誰かおしえてください。

4.過程にはベクトルがある

それはさておいて、事物というのが過程であるということは、例えば超々高速で超々拡大の撮影ができるとすると、そこには何も映らないということになる。

その代わりに物質の発するエネルギーが感板に跡(飛線)を残すということになる。

私は事物の認識には実体論的認識と目的論的認識が必要だと考えているが、その中でも目的論的認識が本質であり、それは飛線の示すベクトルを捉えることにあると思う。

5.同伴者としての「事物」

事物というのは我々と運動ベクトルを同じくしているがゆえに安定した事物として認識される。逆に言えば事物は我々の安定した同伴者なのである。

より不安定なものはハイゼンベルグ的にしか存在しないし、他の全てのエネルギーは、我々には事物として定立されない。

これらの全体から見ればきわめて少数のエネルギーは、我々人類の同伴者なのである。それは我々との運命共同体であり、同じエネルギーから派生した兄弟たちである。

だから此処から先はそういう事物に「」をつけなければならない。

6.自然は学習するのだ……事物間の相互作用と「発展」

ここまでは自然科学の発展をなぞっていけば、ある程度は辿れる話だ。

しかし弁証法の真髄はたんなる変化にあるのではなく、発展的変化にある。

「自然弁証法」の否定論は究極的にはここに行きつく。「進化論」は表向きは誰も否定しないが、その大本となっている「発展」論は拒否する。

私はこのポイントを相互作用論、すなわち弁証法で乗りきれるのではないかと考えている。