最初にお断りですが、たいへん読みにくい記事になってしまいました。
ウィキペディアの抜粋から初めて、最後はウィキペディアのほぼ全否定になってしまいました。
ただ、結果的には、世上流布された秋瑾像を見直すのには役立つだろうと思います。


上海の歴史を勉強していて、とんでもない人物に出くわした。

多分知らない私が世間知らずなのであろうが、勉強したことを書き出してみる。

彼女の名は秋瑾(チウ・チン)。今風に言えば武闘派女子である。山崎厚子は著書の表題を「秋瑾 火焔の女」としている。

懐に短剣、背にモーゼル銃、鹿毛の馬に跨(またが)って駆ける男装の麗人。秋瑾(しゅうきん)は、今もって、中国女性の胸に燦然(さんぜん)と輝く革命家である。

さすがにひどい。これではまるで満州の女馬賊だ。

まず有名な写真

秋瑾

写真館で撮らせたものだろうが、なかなかの美人で、お金ならいくらでもありそうな身なりだ。

当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。(日本大百科全書)

それにしてもドスをこれみよがしにかざすとは相当に物騒な女性である。間違っても褥を共にしたくはない。

しかし、どうもこのオドロオドロしい写真だけでは、エキセントリックな面が誇張されてしまいそうだ。

もう1枚の写真がある。おそらく、平凡な若奥様の時代であろう。

秋瑾2
   互動百科からの転載

これを見ると多少おてんばではあるが、品行方正な若奥様が、北京での政治状況に心を動かし、革命に目覚め、変身を遂げていくというストーリーのほうがすっきりする。

毎度おなじみの年表形式で、資料を整理していくことにする。ウィキから始めて周辺資料でふくらませていくやり方もいつものとおり。

まずは人名録的なところから。

姓が秋で、名が瑾。元の名は秋閨瑾(けいきん)、競雄あるいは鑑湖女侠と号した。

瑾は玉(硬玉)の意味。余分なことだが「瑕瑾」(玉に瑕)ということばが日本で知られている。あの「瑾」である。(ただしこれは和製漢語)

 

1875年11月8日 福建省の厦門で生まれた。日本で言えば明治8年である。(77,78,79年の諸説)

本籍は浙江省の紹興府である。厦門は祖父の赴任先であり、これに一家が帯同したためである。

祖父・秋嘉禾は廈門府の長官であった。当時厦門はイギリスの実質的支配下にあり、横暴なイギリス人に苦汁をなめさせられたようである。

すでに幼少の頃より男勝りの気性は発揮されていたようで、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えた。男装して町を闊歩したとの話もある。

ただこれらの逸話も、異端性を強調する結果になっている。むしろ強調すべきは、女性には不要とされていた学問や詩作を、それこそ「男勝り」の高度なレベルで習得していたことであろう。

1899年、24歳のときに父の勧めに従い結婚。北京に住み二人の子が生まれる。しかし結婚生活には満足できなかった。

このウィキの記載は、少し省略がある。

1894年、秋瑾の父は税務署長として湖南省に赴任した。赴任先の豪商の息子が秋瑾に一目惚れ、手練手管で両親を籠絡し、秋瑾はいやいや嫁ぐこととなった。これが99年のことになる。

互動百科には姑がいびったと書いてあるが、これは眉唾。上海から見れば湖南はど田舎、気性激しき秋瑾の事ゆえ、いやいや嫁入りした先の姑やしきたりなど心中見下していたに違いない。

この夫は買官に成功し、家族ともども北京に移住することになった。この時までに秋瑾は二人の娘を生んでいる。

世界大百科事典によれば

そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い、狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

武田によれば、「居常(いつも)、即ち酒に逃る。しかして沈酣(酔っぱらって)もって往き、覚えず悲歌撃節、剣を払って起ちて舞い、気また壮んなること甚だし」という状態になってしまう。

これは明らかに病的な躁状態である。この結果、結婚状態は破綻した。直接には義和団の運動に感化されたと言われるが、家庭環境も悪化していただろう。

1904年、秋瑾は家族を置き、単身日本に留学することになる。日本では明治37年、日露戦争後の軍国主義高揚期である。それが彼女の躁状態に火に油を注ぐ結果となったことは想像に難くない。

どうも、このあたりウィキ(ということはおそらく武田泰淳)は書き過ぎのようである。

秋瑾が運動へ傾斜していくのは、フェミニズム運動を通じてのようである。

秋瑾は、女性を「三寸金蓮」の纏足から解放しようと「天足会」の運動に加わった。自らは背広・洋靴・帽子という姿の男装をしてみせた。

秋瑾3
      1904年始,秋瑾开始着男装

運動の中で京師大学堂の日本人教師と知り合い、その縁で日本留学を決意した。教師は実践女学校の校長である下田歌子に秋瑾を推薦した。

夫は二人の子供もあるので引き留めようとしたが、秋瑾は「子供を連れて留学する」と言いはった。夫は仕方なくそれを認め、息子を自分が引き取り娘を秋瑾に押し付けた。

6月28日、秋瑾はまだ三歳になっていない娘を抱いて、日本の客船に乗り、7月24日に東京に着いた。

先ず中国留学生会館の日本語講座に入り、翌05年8月、実践女学校の特別科に入学した。

ここで教育・工芸・看護学などを学んだが、何よりも下田歌子の「男女の学問の平等」という精神に最も強く感銘を受けたという。

なおウィキによると、

来日後は日本語を勉強するかたわら、麹町神楽坂の武術会にも通った。射撃を練習したほか、爆薬の製法まで学んでいる。

深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送った。

と、記載されている。「別の一面があったのか」とも思われるが、どうも他の資料も読み進めるうちに、いささか疑念の湧くところである。

したがって、最初に書いた次の一節はいずれ書き改めなければならないかとも思っている。

ここまでだけでも結構なエクセントリックぶりだが、その後はこれに民族主義の方向性が与えられていく。

浙江同郷会の週1回の会合には必ず出席した。横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。

そして同郷志向に飽きたらない秋瑾は革命運動にまで首を突っ込んでいくようになる。

ここで、当時の中国の革命組織の流れを見ておく。これには2つの流れがあり、一つは05年8月に孫文らが東京で結成した「中国同盟会」、もう一つが上海の「光復会」であった。

「光復会」は浙江省の出身者を中心に組織され、秋瑾の郷里紹興府もこれに統合されていた。のちに「中国同盟会」に加わることになるが、当時は別組織である。

秋瑾はまず「光復会」の東京の責任者・陶成章に会い入会をもとめた。ウィキによれば、彼女の依頼は「執拗」だったらしい。

陶成章は根負けしたのであろう。紹介状を書くという形で、上海の蔡元培会長と紹興の指導者・徐錫麟へ下駄を預けた。

1905年2月、一時帰国した秋瑾は「光復会」との接触を図る。蔡元培は入会を認めなかったが、紹興の徐錫麟(しゃくりん)は入会を認めるに至る。

東京に戻った秋瑾は勇躍活動家の組織に乗り出した。

浙江の人間はそれまで団結心がないといわれていた。それを「光復会」に結集させたのは、強い説得力と彼女が培ってきた人的関係のなせるわざであろう。

また女子留学生を「共愛会」に組織し、自ら会長に収まった。留学生の組織で実績を上げた秋瑾は、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」への加入を認められる。そして浙江省の責任者となった。1905年(明治38年)9月のことである。

そして11月2日、秋瑾の最初の見せ場がやってくる。

清国の要請を受けた日本政府が、清国留学生に対する取締規定を発した。これに反発した学生が授業のボイコット運動(同盟休校)をおこす。

強硬派学生(秋瑾を含む)はさらに同盟休校にとどまらず一斉退学と全員帰国を主張した。

中国留学生会館で浙江同郷会の集会が開かれた。一斉退学に反対する学生達との議論が白熱した。秋瑾は興奮し、いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、彼らに「死刑」を宣告した。

その中には同じ紹興の出身、魯迅も含まれていた。

魯迅の弟である周作人は、その様子を著書『魯迅の故家』で次の様に書いている。(ウィキペディアより)

秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

大見得を切った秋瑾は12月に故郷紹興に戻る。その時、「私は帰国後、革命に尽力し、皆様と中原で会うことを臨んでいる」と同級生に語ったという。

ウィキでは1906年の生活についての記載はない。

他資料での検索の結果は以下のごとくである。

1906年はじめ、紹興の「光復会」は彼女を受け容れた。彼女は徐锡麟の紹介により光復会に加入した。互動百科

崔淑芬によれば、

紹興に戻った秋瑾は明道女学校、浙江省の潯渓女学校の教員を歴任した。あわせて紹興で『中国時報』を発刊、女権、女子革命を主張した。

女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳した。(永田圭介

06年の夏になって、秋瑾は上海に出て『中国女報』を創刊した。

秋瑾らは上海に革命機関を设立し、「中国女報」を発行した。最初に提案したのが「婦人協会」創建の主張だった。彼女は近代女性の解放のために第一声のラッパを吹き鳴らした。-互動百科

したがってウィキで1907年とされている『中国女報』の記載はあやまちである。

崔淑芬は「中国女報」における秋瑾の主張を、秋瑾の活動の真髄として重視し、丁寧に紹介している。

まず発刊の辞から。

本報の発刊の目的は、女学を振興し、女性を解放するためであり、団体化するためである。

とし、「将来は中国の婦人協会もつくろう」と提起している。

次に「警告妹妹們」という文章。

多くの女同胞はまだ真っ暗地獄にいるようだ。一人の人間として志を持たなければならない。志を持っているなら、自立することができる。‥‥女子は教育を受けるべきだ。そうすれば家業が興隆、男子に敬重される。

また日本を例に上げ、

女子教育の発展と国家の発展との関係は切っても切れない関係にあり、その重要性を認識すべきだ

と強調した。

その年の冬、秋瑾は紹興に戻って大通学堂を指導することになる。

大通学堂はもともと徐锡麟、陶成章らが始めたもので、光復会の幹部、大衆を組織する革命の拠点となるものだった。

おそらく以下のウィキの記載は1906年の初頭のことであろう。

正月、紹興に光復会幹部の養成を目指す大通学堂が開かれた。

光復会の幹部は「会党」と呼ばれる秘密結社に二重加盟した。それは明確に革命を目指す政治結社だった。紹興においては竜華会(りゆうげかい)と呼ばれた。

そして以下の記載は06年後半の出来事だろうと思う。

秋瑾が大通学堂の代表となった。しかし秋瑾の目標は幹部の育成にとどまらなかった。

秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。

また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めて行ったのである。

そして1907年、秋瑾の最後の半年が始まる。

ウィキによれば

5月 武装蜂起の計画が確定した。徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起。秋瑾がこれに呼応して浙江で蜂起するという筋書きだった。

7月6日、安慶で徐錫麟が行動を起こした。清朝政府の安徽巡撫を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。紹興に押し寄せた。

7月13日、大通学堂の秋瑾は、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともなく逮捕された。

そして2日後の15日、紹興市内で斬首された。享年31歳。辞世の辞は「秋風秋雨、人を愁殺す」

なお「6月5日」とあるのは旧暦表記である。

正直に言えば、秋瑾が武装蜂起をセッティングしたというウィキの記載は疑わしい。武装蜂起の覚悟はあったにせよ、具体的な決行の意図があったかどうかは疑問もある。

処刑の様子については永田圭介さんのエッセイがある。

7月14日、秋瑾は最初に知県(県知事)の尋問を受けた。このとき、「秋風秋雨人を愁殺す」の絶唱を書き遺した。

その後取り調べを拒否し、火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問を受けたが、「革命党員は死を恐れない。 殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。

官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。

7月15日、午前3時に監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けた。知県は袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)と梟首(さらし首)をせぬことを約束した。

秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く!手出し無用」

処刑は公開で執行された。場所は市内繁華街の軒亭口である。

午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県 知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。

知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。


ウィキペディアの記事は、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を下敷きにしたものらしく、名文である。しかしその分彼女の異端性を強調する方向での脚色があるようだ。

調べていくうちに、どうも武田泰淳によって作られたイメージは実態とは相当かけ離れているのではないかと思うようになった。山崎厚子さんはその傾向をさらに強めている。

崔淑芬 秋瑾と日本 を読んでその疑念は確信に変わりつつある。

秋瑾は女盗賊のような野蛮な人間ではない。その戦闘性は高い知性と貶められた女性への深い共感に裏付けられている。

私はマヤコフスキーの詩の一節「議論はもうたくさんだ。同志モーゼルよ!」を想起する。

19世紀末から20世紀初頭における理性のあり方の一つの典型として、もう一度本当の秋瑾像を構築しなければならないのではないかと思う。(誰かさん、お願いします)