関裕二 「天皇家誕生の謎」を読んだ。

非常に面白かったが、疲れる本でもある。

基本的には「言いたい放題」の本だが、示唆に富む部分もたくさんある。

主要には蘇我氏と天武天皇に焦点があたっていて、私が目下興味をもつ部分より少し後の時代が中心となる。

多分一番大変な部分であろう。これといった物差しがないので、ひたすら記紀を読み込んでいくことになる。

1.壬申の乱について

関さんの結論としては壬申の乱は天武=隠れ蘇我によるクーデターということだが、これはなかなか受け入れるには厳しい。

私はあくまで外圧誘発説で、白村江の敗北、唐が乗り込んでの直談判という緊迫した情勢の中での路線選択が問われたのだろうと思っている。

天武がとったのは唐との対決辞せずの路線だった。それは天智と同じ路線だ。天智・天武の兄弟は大和政権内の武闘派の代表だ。だから跡目争いという見方はおかしい。天智は病床にあり、死を迎えようとしていた。難波には唐の使節団が居座り恫喝を加え、大和政権の主流派はすっかり怯えきっていた。天智が死ねば彼らはただちに唐に屈服するだろう。そうすれば唐は恭順の証に天武の首を差し出せというに決まっている。だから彼は逃げたのだ。そして武闘派の根拠地である東国へと向かったのだ。

したがって天武がとったのは、軍事動員体制の確立と、天皇制のもとでの愛国精神の発揚だった。決して生産力が発展し国力が増強したからそういう路線をとったわけではない。むしろ逆の状況だったから、独裁制のもとで強硬路線をとったのだ。律令制度も記紀の編纂もその路線の上にあった。

こういう政権の動揺は、新羅ではもっと激しかった。新羅を見れば壬申の乱は了解可能なのである。

その緊張関係は唐の朝鮮半島からの撤退とともに薄らぎ、それとともに旧体制が復活し、その間隙を縫って藤原が権力を握っていく、という経過をとったのではないか。

隠れ蘇我や東国の影響というものは、やや人脈的な事柄に拘泥しすぎていると思う。

2.旧出雲系の評価について

基本的な視点はかなりうなづけることが多い。事実問題では、流石に専門家だけあって随分勉強になった。

旧出雲系が枝垂れ柳的に日本海側の色々なルートから近畿に入ったことについては同感である。このうち大和に入ったのは出雲政権主流の大物主の一派であり、彼らは吉備を経て海路紀伊に達し、そこから大和に入った。他に物部、葛城、平群などのグループもそれぞれの居場所を見つけた。

出雲系の一部はそのまま日本海を東進し、丹後・敦賀・越前・越後などに植民地を形成した。彼らは敦賀から近江・東海へ進み、越後から信州・関東北部に進出した。信州・関東北部ではすでに弥生人の先住地域を越え、縄文人と直接接触した可能性がある。


3.崇神王朝について

神武東征と神武以下8代を空想の産物とするのには抵抗がある。崇神王朝はまじりっけなしの敦賀系政権であり、神武を皇祖に立てるいわれなどないからである。

神武を皇祖に担ぐには、それなりの理由なりメリットがあるはずだ。それ以前に神武系の皇統があってそれを継ぐ形をとったからこそ、田舎者の軍事政権にすぎない崇神系が王朝として成立したのではないだろうか。

大和の権力の4層構造は私が主張するところである。すなわち先住民族としての縄文人(国栖)、水田耕作を持ち込んだ弥生人(銅鐸人)、出雲系天孫族(纏向人、物部族、葛城族など)、そして神武一族(倭王国系)の4つである。

その後神武一族の支配は形だけのものとなり、出雲系集団の実質的支配が確立した。その後に、後発の敦賀系出雲族が進出してきた。そして崇神のときにクーデター的に権力を掌握した。

したがって4.5層ともいうべき積み重ねで大和政権は構築されているのである。

4.河内王朝について

関さんは雄略の事績について詳細に検討されているが、そもそも河内王朝の出自と性格についてはあまり触れられていない。

たしかに倭王朝の関与についてはほとんど文献では触れられていない。しかし倭国・大和政権の歴史を学ぶ上では、この問題はきわめて大きい。

ここを看過すると日本の成り立ちは見えてこないのではないかと思う。

5.蘇我氏について

蘇我氏は謎の多いグループである。関さんの本でだいぶ学ばせてもらった。

継体を支え、継体とともに発展した、というのはわかるが、継体を擁立したのは大伴金村と物部一族、すなわち河内王朝勢力である。

私としては継体の大和入りを妨げた勢力は一体誰だったのかを知りたい。(旧崇神グループではないかと想像する)

それとの関連で(多分旧崇神勢力を裏切り、継体に内通したグループとして)蘇我が浮かび上がってきたのではないかと考えている。

これだと、蘇我氏の急浮上がうまく説明つくが、所詮は仮説である。

6.倭王朝について

この本には殆ど書かれていないのだが、大和政権が成立するにあたっては倭王朝の性格が随分関係しているのではないかと思う。

倭王朝は日本国内の版図拡大についてはほとんど興味がなかった。関心はあくまで海峡の向こう朝鮮半島の動向にあった。

出雲を攻略したのも、領土の拡大というよりも日本国内の親新羅勢力を駆逐することにあったのではなかったろうか。スサノオは高天原から追放され新羅に降り、渡海して出雲に至ったとされる。日本に新羅系のグループがいることが目障りなのである。だから出雲から彼らを追放した後、倭王朝はそれ以上東方に進出しようとはしなかった。

思うに、倭王朝は部族連合ではなく、一種の基地群だったのではなかろうか。それは第一戦隊が有田、第二戦隊が糸島、第三戦隊が那の津という具合に配備されたのではないだろうか。もちろん相対的な問題だが。

領土的欲望はあまりなかったから出雲族が近畿や北陸に拡散し、大和政権を作っても興味を示さなかった。結局日本にとっては外在的な権力に過ぎなかったから、いずれは任那とともに滅亡し駆逐される運命にあったのではないかと思う。