以前、2013年01月19日 というのを作成していて、AD500以前に関しては、これが今でも私の基本的な時刻表になっている。

この年表のどこに仲哀天皇の闖入記が挿入されるのか、というのがとりあえずの問題だ。

3千年ほど前から朝鮮半島南部の長江文明人が日本に入ってきた時、日本の西部はほとんど無住の地だった。僅かな縄文人は必ずしも常緑樹の密林に適応出来ては居なかった。

紀元0年ころにはすでに長江文明人(弥生人)は尾張から越前加賀くらいまでは(縄文人と棲み分けしつつ)進出していたと思われる。

そしてそこへ新たに満洲南部の「騎馬民族」(扶余族)が侵入し、百済、新羅、任那などと同様に倭王国を形成した。

強調しておきたいが、この王国は決して内発的な権力形成によるものではない。むしろ外在的な武力支配であった。したがって当初より一体的な権力であったと思う。

高天原が智異山辺りだとシチュエーション的にはぴったり来る、スサノオは高天原を追放され、新羅を経由して出雲にやってくる。出雲神話には新羅との親近性が強く感じられる。

高天原の本流はそれが気に入らなくて日向に降臨し、出雲をやっつける。出雲の指導者である大物主は漂泊を続けた後、大和盆地に第二の王国(おそらくは纏向王国)を建設する。

この王国は、一旦は神武東征により九州王朝の傘下に入るものの、内発的な発展を遂げていく。

同じ出雲系ではあるが、遅れて機内に入った敦賀系の支配のもとに軍事国家として急膨張を遂げる。

一方九州王朝は高天原一族の植民地としての性格を抜け出すことなく、南朝鮮の支配のための後背地としての任務を負わせ続けられる。

ところで、地中海の東側を地図で見てもらいたい。トルコのエーゲ海沿岸はその多くがギリシャ領である。歴史的に見てもトロイ戦争はまさにギリシャ人の植民地トロイの支配権を巡る争いであった。

相争ういずれの側もギリシャ系である。土着の住民はひたすら収奪される一方で、トロイ戦争においても基本的には蚊帳の外であった。

一方で、北九州の海岸沿いに植民地国家を形成した倭国も、それ以上内陸に進出して、単一国家を形成するつもりはなかった可能性がある。当面は圧倒的武力と天孫信仰の押し付けという「海賊国家」で十分だった。

そういう外在型の植民地国家である倭国と、内発型の発展を遂げた大和との最初の接触が仲哀の香椎進出と死(おそらくは暗殺)であった。

この事件は、倭王朝にとってはさほどの意味を持たないかもしれないが、大和政権側には巨大な意味を持つ。

まず第一に、大和政権の勢力圏が本州の西端にまで達したことである。吉備を目下の同盟者として抱え、瀬戸内海の制海権を掌握した大和政権は、さらに倭王朝の領土たるべき出雲も征服し、日本最大の領土を持つに至った。

第二に、両者は戦闘関係にはなかったことである。上下関係については想像であるが、大和政権はもともと神武以来の九州王朝の子分筋だから、一応臣下の礼は尽くしたのではないか。

仲哀が出向いたのだから、大和政権側から何らかの提案がされたであろう。2つのオプションが考えられる。一つは大和政権の支配下に入れという提起であり、一つは関門海峡を境にして、以東の瀬戸内沿岸の支配権を承認させることである。あるいは九州南部の支配権も要求したかもしれない。

第三に、倭王朝は新羅との戦闘のさなかにあったことである。その戦闘は朝鮮半島南部で展開されていた。おそらく任那と新羅の間の戦闘であったであろう。

さらに想像をたくましくすれば、闘いは劣勢であった。もはや高句麗との直接対決ではなく、その手先となった新羅を相手にして苦戦するというのはこれまでになかった事態である。いずれにしてもこれは倭王朝の戦争である。

第四に、倭王朝は仲哀に新羅との戦闘に参加するよう促したことである。これは明らかに上から目線ではないか。

仲哀はそもそも朝鮮半島の存在すら知らなかった。そんなところに行って闘う気など毛頭ない。だからこの提案を一蹴した。これにより倭王朝と大和政権は決裂した。

第五に、仲哀は倭王国により暗殺された可能性がある。いずれにせよ彼は香椎で急死し、遺骸は下関まで運ばれ、仮のもがりが行われた。しかし仲哀の軍は反撃も抵抗もしなかった。

倭王朝の軍事力は大和政権を遥かに凌駕していたはずだ。何十年も朝鮮半島で高句麗や新羅と戦い続けてきたから、武器・用兵のいずれをとっても高度化していただろうし、兵士は人を殺すのに慣れている。

第六に、仲哀の死後、倭王国は大和政権の支配権を握った。仲哀の幼子を後継者(応神天皇)に指名し、大和に送り込んだ。本来の皇位継承者たちはこれに抵抗したが、結局押しつぶされた。

これが倭王朝の側から見た、「仲哀事件」の顛末である。この後大和政権はふたたび記紀の世界に閉じこもっていく。しかし倭王朝には大和政権を全面支配する意思も国力もなかった。玄界灘に面した港湾とその背後地を守るのが精一杯だったように思われる。

大和政権にとって最大の教訓は、「倭王朝には手を出すな」ということであろう。

なお下記の記事は、いまとなっては明らかに間違いです。