「農談」運動のまとめ


明治前半期の農業改良運動をまとめてみて分かったことをまとめておく。

明治の西南戦争を前後に、農業改良を柱とする一大運動があったことは間違いない。

多分それは日本という国の国民意識を根底から変える運動であったといえる。

それは官製キャンペーンとして始まったが、たちまちの内に全国の農民の心をとらえた。

それは幕藩体制と身分制度の中に捉えられていた農民が、藩から自立し自らの足で立つ経験であった。農民が全国規模で連帯し、手足ではなく頭を使って農業を興すことを憶えた。

そこでは藩主も武士も必要ではなかった。300年の幕藩体制の後のこの浮揚感は何者にも代えがたいものであったろう。

ただ、国内各地での生産技術の差と言ってもたかが知れているわけで、技術の拡大だけを目標とする初期の農談運動は10年ほどで下火となる。

その時に松方デフレの及ぼした影響については良く分からないが、秩父事件などの農村蜂起についてもこの浮揚感との関連を考えたほうが良いのかもしれない。

明治20年以降は農談運動は様相を変える。明らかに中農に特化した運動になっていく。おそらく貧農は没落し小作へと転化しているのであろう。逆に富農層は地主層へと転化し営農への興味を失っていくのであろう。

政府もこの頃になると、農業より工業へ興味を移し、工業を基幹とする富国強兵策へと転換する。

結果として、農談運動はきわめて自律的なものとなり、西洋農業技術の習得もふくめ学習意欲はますます燃え上がる。

この頃「老農」と称する農業の達人たちが全国各地を回っては指導を行った。その指導内容は単に技術的なものにとどまらず、農業に対する基本的な心構えを伝授した。

日本人の精神的バックボーンは武士道だと言われるが、そうではないと思う。武士道というのはもっとアナーキーで、他律的なものだ。

むしろこれら「老農」の教えこそが日本人の倫理の基本だろうと思う。それは松下幸之助やホンダ、トヨタ、ソニーなどの創業者の思想のバックボーンとなっている。

戦前の軍国主義は二宮尊徳の報徳思想だけをとりあげて民心を鼓舞したが、他にもあまたの篤農たちが全国津々浦々で、農民の立場に立つ勤倹勉学の教えを広げていたことを忘れてはなるまい。