パナマ文書の重大性はどこにあるか

今回、最初に書いた「パナマ文書を打ち上げ花火に終わらせないために」の冒頭にこう書いた。

最初にこのニュースを聞いたとき、正直、またかという感想で見ていた。

これまでもウィキリークスで何回かのスッパ抜きがあって、脱税の規模・手口についてはおおよその見当がついていたからだ。

それで調べてみて、今もなおその感想が払拭されたとはいえない。

それはそれなりに、分からないけど分からないなりに、どうも「問題はそういうところにはないのではないか」という感覚が芽生えてきた。

「そういうところ」というのは、タックス・ヘイブンとか租税回避という分野である。

1.巨大かつ匿名性の高い資金プール

それでいま感じているのは、むしろこれだけの金が匿名で動いているという事実である。さらに言えば匿名性のもとにこれだけの金が貯蔵され、いつでも引き出し可能な形態で積み上げられつつあるという事実である。

それは投機性の高い金融市場のための一つのアセットとして存在している。そしてその市場とタックスヘイブンをつなぐ「導管」(Conduit)の役割を持っている。

租税回避とか節税という場合は、もっぱら関心は秘匿することにある。もちろんどこかの独裁者や麻薬王や超富裕層などはそういう目的で利用するのであろう。

しかしタックスヘイブンを使った資金プールの形成は、むしろ集めた資金の再利用にあるのではないか。だからこそ問題が深刻になっているのではないか。

2.ユーロ市場との強い関連

この点で、AFPの「租税回避の中心はロンドン」という記事は面白い。世界中のオフショア・ネットワークはロンドンを中心に形成されているというのだ。

モサック・フォンセカ社はロンドンから資金を受け入れ、それを英国領バージン諸島を中心に秘匿し、さらにロンドン市内の不動産へ投資している。

つまりシティーのユーロマネーを中心とする投機的市場のファシリティーとして存在しているものと思われるのだ。

ご承知のようにユーロマネーの市場は非常に匿名性の高い、無国籍的なオフショア市場だ。だから匿名性の高いマネーであっても、自由に市場に参加し、捌くことができる。

泥棒に故買屋が必要なように、匿名マネーには投資できる市場が必要だ。逆に言えばユーロ市場には金を自由に、しかも秘密裏に出し入れできるヤミ金庫が必要なのだ。

つまり匿名ネットワークはユーロ市場と表裏一体のシステムだということになる。

それがオフショアマネーの本質なのではないか。

3.金融市場の主導権を握りたいアメリカ

2,3年前にLIBOR事件というのがあった。私も調べて記事にしたことがある。しかしさっぱり思い出せない。

たしかユーロ市場の標準金利を決めるコール金利で、イギリスの大銀行が談合して決めている。これに世界のドル運用が規定されている。

それが不正をやって、それがバレて大問題になったが、どうも火付け役はアメリカ財務省ではないかということだったように記憶する。

あのモルガンでさえ、シティーの一角を借りて店子商売しているくらいだ。ドルはアメリカの通貨だというのに、その金利をイギリスが決めるというのは気に入らないに違いない。

そこでユーロ市場つぶしにいろいろ策を弄していることは間違いない。

此処から先は想像だが、いろいろ実情を調べていくうちに、ユーロ市場に流れ込む資金の出処が分かってきた。

それがスイスやルクセンブルグの信託銀行の匿名口座であり、あるいはシティーからパナマのエージェントを経由したバージン諸島などの裏口座である。

であれば、この流れを締めあげてやれば良いという理屈になる。口実は後からいくらでもつく。ある時は麻薬カルテルの資金洗浄だったり、ある時は中国やロシアなどの独裁者だったり、アラブのテロリストだったり種はゴマンとあるし、なければでっち上げるだけの話だ。

またタックスヘイブンを使った脱税への世論の反発も追い風になる。今回などその典型だろう。

4.アメリカは自らタックスヘイブンになるつもり?

こうやってタックスヘイブンを炙りだすと、巨大な秘匿マネーは居所がなくなる。この巨大金融資産を管理したくなるのも人情だろう。

ただ、これを積極的に呼び寄せようとしているかというと、私にはまだ確信が持てない。

状況証拠としては、外国口座税務コンプライアンス法(FATCA)を成立させ各国にそのスキームを押し付けたにもかかわらず、自らはOECD合意に加入しようとしないこと、国内の幾つかの州に「タックスヘイブン特区」を設け、そこでの匿名口座の設置を容認していることがあげられる。

ブルームバーグの記事によれば、いままさに、カリブ海からネバダ州への顧客資金の地滑り的大移動が起きているという。

こういう流れの中で今回の「パナマ文書」問題を考えれば、告発者の思いは別として、それがどういう結末をたどるかはある程度予想がつこうというものだ。