The Four Freedoms(1941) Franklin D. Roosevelt

1.前置き 「すべての国の権利への敬意」が土台

国内問題について…と全く同じように、国際問題に関する我が国の政策は、大小を問わずすべての国の権利と尊厳(the rights and dignity)に対する decent respect に基づいている。

そして道義的な正義(the justice of morality)は、最後には勝たなくてはならないし、必ず勝つだろう

2.「人類の普遍的な自由」

第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由(freedom of speech and expression)である。

第2は、世界のあらゆる場所で、すべての個人がそれぞれの方法で、神を礼拝する自由である。

第3は、欠乏からの自由(freedom from want)である。それは、世界的な観点で言えば次のような経済的合意を意味する。(直訳では、“世界語に訳すなら、次のような経済的理解を意味する”)、

すなわち、あらゆる国で、その住民のために健全で平和時の生活を保障することである。

第4は、恐怖からの自由(freedom from fear)である。それは世界的な観点で言えば、世界規模で軍備を削減することを意味する。

一つのポイントまで削減すべきだ。すなわち、いかなる国も、いかなる隣人に対しても、武力攻撃の行動を起こす立場をとらなくなる、そういうポイントまでだ。それも全面的なやり方でだ。

3.独裁者たちと4つの自由

独裁者たちは爆弾の衝撃によって専制政治の新秩序を作り上げようとしている。4つの自由はそのまさに対極にある。

われわれが追求する世界秩序は、自由な諸国が友好的な文明的社会の中で力を合わせる協力関係なのである。

それは道義をわきまえた秩序である。

それは千年先の幻想ではない。われわれの時代と、この世代のうちに実現可能な形の世界である。

4.米国の歴史と革命

米国の歴史は永続的な平和革命である。そこには強制収容所も、逃走を阻む溝もなかった。

米国は、その運命を、何百万人もの自由な男女の手と頭と心に託してきた。そして、神の導きの下で、「自由」に信頼を託してきた。

5.自由とは何か

自由とは、あらゆる場所で人権が至上であること( the supremacy of human rights )を意味する。

そうした人権を獲得し維持しようと苦闘する人々に、われわれは支援の手を差し伸べる。

我々の強さは、我々がこの目的のもとに団結していることにある。

アメリカンセンターJAPAN ホームページより)

Yuko's Blog 「アメリカ ウォッチ」に親切な解説があるので紹介する。

 米国憲法改正第一条には、「言論の自由」と「信仰の自由」が謳われている。ルーズベルトはこれに第3,第4の自由を加えたものである。

freedom from want とは、人権および国際的権利として、すべての国民は社会的および文化的側面から適度な生活水準を維持する権利があることを強調したものである。(とあるが、これを「欲することの自由」とは、まぁその通りではあるが、流石に意訳が過ぎよう)

最後の恐怖のない自由とは、この戦争は世界が平和と自由のために戦っていることを米国民に知らせる意図があったと思われる。

この文章から、4つというのはレトリックであって、要するに2つの自由であることがわかる。

欠乏からの自由というのは、「生存権」のことである。恐怖からの自由というのは「平和的生存権」のことであるが、もっと差し迫っていて、いわば「平和のために闘う権利」ともいうべき色合いを帯びていることがわかる。

どう闘うかは、この時点ではまだ示唆的なものにとどまっているといえる。

この二つは、「自由」ではなく「権利」として憲法前文に生かされている。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」


私にはこの2つの「…からの自由」が、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と響き合っているような気がする。

何がどう響き合っているのか、あるいはいないのかはわからない。

フロムはフランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取るのと前後して、アメリカに亡命した。

そして、1941年、アメリカが参戦する直前に「自由からの逃走」が刊行された。

時期的には完全にかぶっており、おそらくフロムはルーズベルトの「恐怖からの自由」を聞きながら、そしておそらくはそれに共鳴しながら、論文を書いたのだろうと思う。

学生時代には一生懸命読んだが良く分からなかった。いまになると、分からないのが当然なんだということが分かった。

そもそもルーズベルトの「恐怖からの自由」というのが持ってまわった表現で、「平和への自由」というところを英語の慣用的表現に合わせて逆説的に言っただけの話だ。

要は「平和的生存権」の主張そのものだ。しかも「平和的生存権」一般にとどまらず、「平和のために闘う権利」まで踏み込んで言及したものだ。

だから言論人は、ルーズベルトの呼びかけに応えて、「平和のための闘争を放棄するな。最後まで闘え!」と呼びかけるべきなのだ。文明論などやっている陽気ではないのだ。

そういう文脈で見ると、フロムの文章は情けないほど状況に立ち遅れている。“フロイド魔術用語”への置き換えを除けば理論的寄与は無きに等しい。

戦後フロムらの新フロイド学派がもてはやされたのは、サルトルの実存主義と同じで、スターリン主義の同伴者として位置づけられたからに他ならない。

スターリン主義が地に堕ちた以上、彼らも同じ運命をたどる他ないだろう。