敦賀に気比神宮という神社がある。神宮のサイトによると、

大宝2(702)年の建立と伝えられています。7柱のご祭神をまつる北陸道の総鎮守。明治に官幣大社となりました。

ということで、時の天皇である天武の肝いりで作られたことがわかる。

それで7柱の御祭神だが、

当初の祭神は伊奢沙別命(イササワケ)1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀した。

ということで、702年というのは社殿の造営であり、神社そのものはもっと古くからのもので、敦賀植民地の開祖であろう出雲系の神が主神である。天武天皇が新たに造営して仲哀天皇・神功皇后を祀ったところに意味がある。天智・天武によるクーデターは敦賀系の皇統を祖と仰ぐグループの仕業ということになる。

「日本武尊ほか4柱」というのが気になり調べると、

日本武(やまとたける)尊、應神天皇、玉妃(たまひめ)命、武内宿禰(たけのうちのすくね)命

となっている。

ふざけた話ではないか。

皇后が主神で、天皇がその他大勢とはどういうことか。

仲哀の活動したのが西暦400年前後とすると、天武はそれから300年もあとの人である。きっと記紀の編纂の過程でこれらの人物の存在を知り、「それでは」ということで新たに神社を造営したのであろう。つまり西暦700年の認識としては「これでいいのだ」ということである。皇統譜上の肩書などは「どうでもいいのだ」ということである。