A.銅鐸文明と前期弥生人

紀元前800年ころから前期弥生人が朝鮮海峡を渡り、九州に進出を始めた。これは長江文明の流れをくむ人々で、銅鐸を信仰のツールとしている点で一致している。

彼らが大量に流入してくるのは、中国大陸及び朝鮮半島における北方系人種の南進をうけたもので、一種のディアスポラといえる。

先住民である縄文人は、ミトコンドリアDNAやゲノム解析によれば、長江文明より以前、おそらく1万年くらい前から日本に定着した北方系種族であり、おそらくは数次にわたる進出と混淆があったと思われる。

水田耕作を主たる生産様式とする弥生人は、漁労・狩猟・採集を生活手段とする縄文人と混在しながら、その生産性の高さにより次第に縄文人を圧倒していったと思われる。弥生化した縄文人もかなりあったであろう。

いずれにしても倭国成立の頃までに、縄文人は山間にこもるか辺鄙な漁村に逼塞するか、どちらにしても歴史の表舞台からは姿を消しており、その後の動きは、アイヌ史を除けば無視してもよいと思う。

B.北方人(天孫族)の侵入

中国大陸では長い戦争の時代を経て秦が全国を制覇する。西安という辺境の民が、馬と車という兵器の力で、長江文明の揺籃の地までふくめ征服したということだ。それは当然朝鮮半島にも反映し、最終的には漢の漢江までの進出という形に現れた。

漢の目下の同盟者としての扶余(遼東)の公孫氏は、漢江を越えてさらに南下し、馬韓の地に百済を起こした。同じように倭国の軍は日本にやってきて支配者たることを宣言した。さらに百済の南方に馬韓が残されたように、近畿以東には倭の統治が及ばない弥生人(銅鐸人)の社会が残された。

彼らは前期弥生人を駆逐するのではなく、前期弥生人の生産システムも破壊せず、彼らの上に君臨した。なぜなら彼らは征服者であってディアスポラではないからだ。しかし選良意識の根拠となる天孫信仰だけは譲れなかった。だから銅鐸はことごとく打ち捨てられた。これはスペインの征服者が新大陸の先住民の神殿を破壊し、その上にキリスト教会を立て、住民にキリスト教を強制したのと同じだ。

これが私の言う天孫族であり、江上波夫の「騎馬民族」だ。

C.倭国の特徴

ここはまったくの推論である。一般に古今東西の征服国家がどのような特徴を持っているか(特に朝鮮南部)検討し、それにより倭国の有り様を推し量るだけの与太話である。

征服者は強いプッシュ要因を持つ植民者ではない。基本的には出張族である。したがってコスモポリタンである。彼らは在所の親族と通婚し自らの血統を維持する。もう一つは宗教的共通性に頼って結束を維持する。遠い扶余(遼東)の国は別としても、百済は公孫氏につながる本家筋として特別な関係があったと思われる。

新羅は弟分の分家であろう。百済は馬韓を支配し、倭国は弁韓を支配し、新羅は辰韓を支配した。これが朝鮮半島及び九州の当時の支配様式であって、それらは決して下から積み上げられた国家ではない

この時代倭国の本拠地はあくまで半島にあったと思われる。金印に記された倭の那の国王は、対馬海峡を挟んで形成された倭連合国の一部を成す那の国の王であろう。那は那の津(香椎?)を本拠地としつつも倭国の日本領全体を支配していたと思われる。決して日本国内に群雄が割拠してその一人というわけではない。でなければ中国が金印を授けることなどありえない。

これが各国の発展に伴い、最終的には分裂していくのである。

D.倭国大乱と出雲の国譲り

これが同じものかどうかはわからない。倭国大乱が西暦100年台に起きたことは間違いなさそうだ。しかし出雲の国譲りがいつかはわからない。考古学的事実の読みによって推定していくしかない。少なくとも同時並行で進んだ可能性はかなり高い。

まず倭国大乱だが、前項の発想に基づけば、それは半島側の倭国と九州側の那国の本家争いだろう。そして大乱後に、両国が分裂しなかったことから考えると、その内乱は半島側政権の勝利に終わったと見るべきだろう。那国配下の諸侯は敗れその地位を失った可能性がある。その延長線上に出雲の国譲りを見るのはあながち不自然とはいえない。

逆に倭国側についた筑紫(筑後川流域)の勢力が内戦後の統治を任されて那の津に進出した可能性もある。卑弥呼政権の地域的、支配構造的な二重性はそれを示しているのかもしれない。

E.出出雲記

此処から先はまったく記紀の読解の世界に入る。私の基本的立ち位置としては、記紀の叙述そのものは全て信用するに足るというところにある。というより、とりあえず信用するしかない、という方が正確かもしれない。ただし年号はでたらめで、恣意的である。また中国や百済の史書との付け合せは全てでっち上げである。

記紀の国造りから以降の神話的記述部分は、天の沼矛と高天原伝説を除けば出雲神話そのものである。したがって大和政権の基層が出雲系であることは間違いない。しかし同時にそれはこれを征服した神武の皇統を引き継いでいる。これは矛盾しているが事実だから仕方ない。歴史的過程の認識の中で受容するしかない。

倭王朝は出雲を併したあとそれ、以上日本海沿岸を東進しようとはしなかった。これはそういう約束になっていたのかもしれない。いずれにせよ出雲族はディアスポラとなって東方に進出していく。記紀で見ると国譲りの当事者である大国主の息子が吉備の国を経て難波津に上陸し、そこから大和に入ったとされている。いわばこれが直系である。

この3世紀半ば、西暦200年から250年というあたりに、我々はかなりの拠るべき材料を持っている。すなわち①魏志倭人伝の邪馬台国記述、②近畿圏における銅鐸文明の壊滅、③纏向遺跡と古墳の発生、である。

この時代における吉備の国の位置づけは不明であるが、おそらくはここも天孫系の支配する国であったろう(出雲族かどうかはわからない)。前方後円墳という様式は出雲族が吉備から学んだものかもしれない。

ただ門脇によれば、同じ出雲系の一族が但馬・丹波から難波津に入り、あたりを支配していた可能性もある。つまり、長髄彦から物部に至る系統は同じ出雲族でも別の流れということになる。それを頼りに難波津に赴いたとすれば、先住者に配慮しつつさらに奥に進み、大和に達したというストーリーも考えられる。

そして大和の弥生人を支配し、統治の証として古墳を建設し始めた。

F.神武東征

神武東征はここ(西暦300年~350年あたり)に置くしかない。少なくとも卑弥呼の後である。直系か傍系かは知らないが、おそらく卑弥呼の時代を下ること2,3世代、九州王朝が直接派遣したか、海賊の成り上がったものかはわからないが、九州出身の神武一家が征服作戦を決行した。当初の難波津攻略作戦は失敗し、紀の川からの攻撃にも失敗し、最後には熊野からはるばる山越えして、裏口から奇襲をかけることによりまず大和の制圧に成功し、ついで難波津の出雲族をも支配下に収めた。

強調しておきたいのは、この東征は吉備の安定的確保なくしては不可能だということである。東征を始める時点ですでに吉備は九州王朝の勢力下に入っていた。なぜ出雲族が吉備に入ったものの、そこに定住せず、さらにそこから大和に向かったのか、その理由はこの辺りにあるのかもしれない。

G.敦賀雇兵集団の興隆

こうして名目は九州王朝系の分家だが、実体としては出雲族の流れをくむ大和政権が成立していく。政権そのものが寄り合い所帯だから、政権内の力関係は変化していく。これに伴い古墳の位置が纏向周辺から、橿原周辺、大和盆地北東部、河内、とめまぐるしく動いている。

権力移動がこれだけ激しいということは、戦闘力の必要性が高まることを意味する。こうした中で力を増していったのが敦賀の雇兵集団だ。彼らも出雲系天孫族ではあるが、傍系である。敦賀系天孫族は、おそらく当初は大和政権とは無関係に近江、美濃、尾張、伊勢に展開し、在地の弥生人を支配下に加えていった。

その一方で大和政権にも参加し、軍事畑で頭角を現した。そして神武から数えて8代目の天皇の時代に、橿原~河内を地盤とするグループと対決し、これを打ち負かした。天皇の在位を平均10年とすれば4世紀後半、もう少し長くとれば400年代はじめころということになる。この軍事政権は仲哀までの5代にわたり続き、西は吉備を制し、東は東海からさらに東に進み関東地方まで版図に収めるようになる。

H.仲哀の敗死と権力交代

この武闘集団による支配は数代にわたって続く。そして仲哀の時には自らが天皇の地位につくまでに至る。その版図は東は関東平野、西は広島まで至る。そして仲哀は下関から海を渡り九州王朝の本拠地、香椎まで入った。

これが敦賀雇兵集団の絶頂期であった。九州王朝は朝鮮半島の戦闘でかなり弱体化していた可能性がある。しかし本気で戦えば、最新鋭の武器を装備し半島での戦いに習熟した倭国軍であるから、大和政権の田舎侍など敵ではない。当初は新羅との戦いに巻き込もうと接近を図ったが、仲哀はこれを拒否した。仲哀は「新羅など知ったこッチャねぇ」と開き直った。ひょっとすると新羅という国の存在さえ知らなかったかも知れない。そこで九州側は香椎滞在中の仲哀を闇討ちにしたのではないだろうか。

そして仲哀の腹心である武内宿禰を言い含め、九州王朝への臣従を約束させる。仲哀の愛妾である神功を皇后に仕立て上げ、その息子を天皇に祭り上げ、大和へと送り込む。

いづれにしてもかなりの無理筋である。留守部隊は当然抵抗する。そこで戦闘となるが、九州王朝の本隊に攻めこまれては到底かなわない。本来皇統を継ぐべき仲哀の息子たちは次々と討ち死にし、残りは武内の軍門に下ることになる。

武内宿禰は幼少の天皇と神功皇后を後盾し、河内に新王朝を開く。しかし次の仁徳の時代には政権を追われ、最後には消されてしまう。このあと九州王朝は五王の時代に入っていく。神功の新羅討伐は、後代に九州王朝の歴史から何かのエピソードを拾ってきて挿入したものであろう。