どうも畿内に進出した出雲族には2系統があるようだ。
しかもそれは、一つが枝分かれして二つになったというよりは、登場時期に違いがあって、それぞれに独自の歴史的アイデンティティーを持っているようだ。
ウィキペディアで見ると、第一波が饒速日尊(ニギハヤヒ)の集団で、これは大国主の命を祖先に持つ出雲古王国の直系のようだ。彼らは難波から上陸し、ひとつは河内、ヤマトへと拡散しもう一つは摂津から山城へと淀川沿いに勢力を広げたようである。おそらく吉備国からの流れであろう。
もちろん、瀬戸内に出ずに丹後から山越えして畿内に進出した可能性もある。
彼らは先住者である銅鐸人(縄文人?)を支配下に置き、あるいは駆逐しながら大和川を遡り、纏向に最初の都を設営した。
その後神武の東征を受けてその軍門に降り、大和政権が成立する。しかし少数の神武軍をやがて事実上包摂する。これにより神武の皇統と、出雲神話が併存する奇妙な政権イデオロギーが形成されるに至った。
もちろん、彼らの中には地縁・血縁的に大和派と河内派の相違が生じた可能性がある。また皇室との距離感も異なるし、神武に屈服したグループと最後まで抵抗したグループの間の感情的な齟齬もあったろうと思う。
しかしそれはそれで一体となった。
そこに、いつの頃からかは分からないが、もう一つの流れが合流することになる。それが天之火明命(アメノホアケ)の系統である。
彼らが祀るのはニギハヤヒ集団と同じくスサノオであり、宗教的アイデンティティーとしてはニギハヤヒと同じ出雲族である。
その祭神の多くが敦賀の気比神社を中心に集中しており、越前に入植した出雲族の流れであることは明らかである。天之火明グループは美濃・尾張・伊勢にも入り込んでおり、いわゆる東国グループを形成する。忍熊王が「東国兵」と呼んで頼りにしたのはこの連中のことであろう。
彼らがなぜヤマトに入りこんだのかは良く分からないが、やはり周辺一帯において河内・大和は一つの文化的中心であったのだろう。
当然最初は権力の中心には接触できない。だから彼らは大和政権の雇兵として位置づけられることになったのではないだろうか。
ニギハヤヒ集団にとっても、自らが侵略者であり、相対的に孤立していた環境のもとでは、目下の同盟者としての敦賀雇い兵集団は使い勝手の良い権力ツールだったかもしれない
こうして雇い兵として権力の中に浸透したグループが、やがて軍事力に物を言わせ政権を乗っ取り、自らの政権を実現するという経過は、世界史の中に普遍的に存在する。古代で言えば、例えばメキシコのアステカ帝国はその典型である。
これが「崇神王朝」が登場した理由である。だから、別に文化・産業の中心であったとも思えない敦賀に皇族の往来が引きも切らない理由でもある。
雇い兵集団から成り上がって、武力で中央政権を掌握した天之火明グループにとって、故郷敦賀(そして尾張・伊勢)のマフィアは圧倒的な精神的支柱となっていた可能性がある。