一連の経過の中から、フィクサーとしての武内宿祢が浮かび上がってくる。

中核的事実(?)は以下の通り。

1.武内は景行のころから重用され、成務のときには大臣に上り詰めた。

2.仲哀に随行して筑紫に上った時に、九州王朝側に寝返った。

3.彼は仲哀の死を秘匿し、神功とつるんで親倭王朝の応神政権の成立を図った。

4.神功・武内・九州王朝軍は紀伊に上陸した後、錦の御旗の下に追随者を糾合し忍熊軍を連破し、大和王国を平定した。

5.しかし神功・武内・九州王朝軍は大和に政権を樹立するには至らず、河内に新政権を打ち立て、大和をその支配下に置くことしかできなかった。彼らは巨大古墳を作ることで大和に対して威勢を示した。

5.彼は神功の摂政となり政治権力を握ったが、やがて九州生まれの応神に疏まれ、最終的には仁徳の時代に政界から姿を消している。没年は不祥であり、恐らくは因幡の逃亡先で粛清されたと思われる。

ここから河内王朝が始まるのであるが、それは三つのグループの連合であったろうと思われる。すなわち神功・武内宿祢の越前派、九州から派遣されたグループ、そして河内の在地グループである。

九州から派遣されたグループは帰心矢の如しで、神功・武内グループは錦の御旗だけが頼りのグループだから、いずれ在地グループが主勢力を握るのは時の勢いであろう。

こうしてあの「はにやす」勢力が息を吹き返し、大和の越前系勢力とふたたび拮抗関係に入ることになる。

ただこうした一連の経過を通じ、大和政権が九州王朝にとって侮りがたい勢力にまで成長したことも間違いない。

倭の五王時代はこうした緊張をはらみながら推移したことを押さえておく必要があるだろう。