ここまでくると、やはり仲哀を知りたくなる。


はにやすの乱は大和政権の性格をがらりと変えることになった。

新政権には二つの特徴がある。

一つは非常に軍事色の強い政権であるということ。天皇はカイライであり、実権を握るのは大彦という将軍であることだ。

二つ目はそれが大和より東北に位置する勢力の影響の下にあるということだ。具体的には敦賀が頻出する。

これが「崇神王朝」と呼ばれ、崇神、垂仁、景行、成務と4代続く。この時代、とにかく武力拡張主義だ。西へ東へと攻め込み版図を拡大していく。なぜかは分からないが、おそらく物資の欠乏など厳しい時代だったのであろう。

しかしこのような武断政治と絶え間ない戦争が何時までも継続できるわけはない。何よりも民心の離反は必至である。

さらに身内主義が徹底して。血縁結婚ばかり繰り返していたから、遺伝子が劣化して子供ができなくなってしまう。

そこで日本武尊の第2子の仲哀が皇位を引き継ぐことになる。この皇位継承は異例づくめで、皇太子になったのが31歳、即位したのは44歳というから、相当の軋轢があったと想像される。

ひょっとすると皇位を禅譲させたか、あるいは簒奪した可能性もある。いずれにしても天皇が軍を率いたのではなく、軍人(おそらくは軍トップ)が天皇になったということだ。

ただし、この時期記紀の作者は、皇統をいじらずに神武以来の紀元を1千年くらいに膨らませているから、べらぼうな年齢の引き延ばしをしているから、にわかには信じられない。

仲哀の伝は短いが大変面白い。それは彼が西に侵攻し、遂には九州王朝の本拠にまで進出したからだ。

時期的には400年代初めころ、広開土王の碑の如く倭軍と高句麗とが戦った時代と、倭の五王時代との間の時期だろうと思う。

筑紫への神出が可能になったのは、九州王朝の国内兵力が弱体化していたためかもしれない。あるいは九州王朝の主力が朝鮮半島に出張っていたためかもしれない。

もう一つの可能性としては、彼は九州王朝の敵として登場したのではなく、神武以来の臣としての立場で伺候したとも考えられる。腹の中は分かったものではないが。

仲哀は紀伊から海路西に向かった。下関で下船し、敦賀から日本海沿いに海を渡った神功と合流。香椎に向かった。

そして、「神」(九州王朝)から新羅行きを勧められるが、仲哀はこれを拒否した。さらに「神」を非難した。

「神の怒り」に触れた仲哀は、恐らくは香椎に駐留中に急襲を受け死亡した。遺体は辛うじて関門海峡をわたり、下関に殯された。この時すでに52歳であった。

天皇答えて白さく「高き地に登りて西の方を見れば國土を見ず。唯だ大海のみ有り。詐(いつわり)を爲す神」と謂いて…。

神、大いに忿(いか)りて詔らさく「凡そ茲(こ)の天の下は汝の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向え」

これで分かるのは、仲哀は新羅などその存在すら知らなかったということだ。ただの田舎侍だ。

ここが大事なポイントだ。

以上はウィキペディアの情報だが、

歴代天皇事典 には別な情報がある。

1.成務天皇四十八年に立太子し、同天皇崩御に伴って翌々年に即位した。翌年には敦賀に移り

2.即位してから神功皇后を妻に迎えている。神功は敦賀の出身とされている。すでにかご坂王と忍熊王は一人前の軍人としてキャリアを積んでいたであろう。

なお、日本書紀の神功皇后=卑弥呼説は無茶である。むしろ九州王朝が大和に攻め込むときの「錦の御旗」として利用されたと考えるべきではないか。そのために新羅征伐の説話がでっち上げられ、ハクヅケに一役買ったというのがリアルなところではないだろうか。