かご坂王と忍熊王

はにやすの乱について触れた以上、かご坂王と忍熊王についても書いておくべきであろう。

はにやすは神武から数えて10代目の天皇の時代である。結論としては大彦と吉備彦の連合軍が河内を制し、山城を勢力範囲に収めたということだ。余勢をかって吉備の国までを版図におさめた。

この時倭国はまさに好太王の時代である。朝鮮半島深く攻め入り、百済と連携して高句麗の軍と争っていた。戦い利あらず後退を余儀なくされたが、朝鮮半島の支配権はその後も五王の時代を通じて維持されている。

しょせん大和政権はローカルな権力に過ぎない。

かご坂と忍熊の乱はそれから4代後の話である。ひょっとすると400年代後半にもかかる可能性がある。ただいずれにせよ、倭の最後の王、武の前であることは間違いなかろう。

大和朝廷の大彦・吉備彦連合が西方に進出し岡山、広島までも版図に入れたとすれば、九州王朝は目と鼻の先である。それから4代、半世紀を経て、大和朝廷が九州王朝にちょっかいを出した可能性はある。

しかしもし侵攻が行われたとすれば、その侵攻(九州侵攻)は失敗に終わったはずである。なぜなら倭王武の上表文には、むしろ倭王朝が東国を制圧した旨が記されているからである。

仲哀天皇の病死を敗死と受け止めるならば、それは大和朝廷に甚大な影響をもたらしたはずだ。そういう観点からかご坂王と忍熊王の反乱を受け止めてみようと思う。


まず事件のあらましを見ておこう。

かご坂王と忍熊王は実の兄弟で、仲哀天皇と大中姫の間に生まれている。仲哀天皇の正室は神功皇后で、その間にできたのが応神天皇であるから、二人は義兄弟ということになる。

つまり仲哀の跡目争いということになる。

私もあまのじゃくだから、

『日本書紀』『古事記』に記されるおし坂皇子の反乱説話は、神功皇后の非実在性と同様に史実ではないと考えられている(ウィキペディア)

と断定されると、「それはないでしょう」ということになる。

中核的事実は次の三つだ。

1.仲哀は新羅かどうかはわからないが、とにかく大和を離れた西方で死んだ。しかも不自然な死を遂げた。(大体、天皇が自らの名を仲哀などと名乗るわけはない。もともとはもっとポジティブな名前があったはずだ)

2.神功皇后という人物が突如登場する。彼女は仲哀の妻となり、筑紫で応神を産んだ。そして皇位継承者の母という名分で軍を率い大和に侵攻する。

3.この皇后軍に対して、かご坂王と忍熊王が抵抗する。彼らは東国兵を動員し明石に陣を構えた。(この“東国兵”は非常に気になる。忍熊王の後日譚がたくさんあって、それを見ると彼らの故郷は越前敦賀であること、素戔嗚命を奉ずる出雲族であることがわかる)

4.しかしかご坂王はイノシシに襲われて食い殺された。このため残党を弟忍熊王が率いることになる。吉備は神功側につく。難波の勢力は両派に分裂する。

5.神功皇后軍は瀬戸内を経て紀伊に上陸した。これを見た忍熊王は内陸に入り宇治に抵抗線を設定した。皇后軍は武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を先頭に立て、忍坂軍を打破した。忍坂王は逢坂で最後の戦いを挑む。そして敗れる、そして瀬田の渡りで琵琶湖に投身した。

6.応神天皇が即位する。実質的には戦闘を率いた武内宿祢の支配下にはいる。


事態はきわめてはっきりしている。大和政権は九州王朝により滅ぼされ、仲哀の未亡人と称する人物に明け渡されたのだ。しかもそれは決して平和的なものではなく、神武東征に次ぐ「第二次東征」という性格を帯びているということだ。

大和政権は神武東征という成立過程からしても、九州王朝に臣従していたはずなので、どうして仲哀が殺されたのかはわからない。

ただ九州王朝の代理人である神功は、神武と同じく、既存勢力を根こそぎ排除するのではなく、それに自らをインテグレートすることにより一種の連合政権を形成した可能性もある。

こういう意見は、学会内にもあるらしい(王朝交代説)。

九州王朝の神功軍が大和を制圧したことと、倭王武の「東国を制すること…」の記載の関係はどうなのか、それが知りたいところだ。

東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

この「東」は日本海側沿いに進むことを意味するのだろうと思う。そこには丹後、越前、越後、さらに山を越えて関東平野までもふくまれると思う。

これに対して「西」は大和政権・吉備をふくむ瀬戸内周囲を指すのだろうと思う。戦う相手は毛人ではなく「衆夷」だ。したがってそこでは征するのではなく、服せしむることになる。