暁(あかつき)部隊のネット情報

私はかつて暁部隊の被爆者について調査し、発表したことがある。その時、集められるだけの史料は集め、関係者の聞き取りもしたつもりだった。

しかし現在ではネットでかなりの資料が閲覧可能であり、知らなかったこと、誤解していたこともあることが分かってきた。

以下、とりあえずネット上調査の結果をまとめておきたい。

まずネット上の資料を挙げておく。グーグルで登場順に並べたものである。

まずは軍内の位置づけ

1.陸軍直属の組織として船舶司令部(宇品)があり、、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した。所轄の兵は船舶兵と呼ばれた。最大18万人が在籍したという。

2.司令部のもとに二つの司令部(教育船舶兵団司令部、船舶砲兵団司令部)と野戦船舶本廠、船舶砲兵団、船舶練習部、船舶衛生隊、船舶防疫部などがおかれる。

3.管轄下の各部隊は「暁部隊」と通称された。これは各隊が秘密保持のため「暁○○部隊」という兵団文字符(秘匿名)をつけられていたことからくる。

 

次に船舶司令部と部隊の沿革

1889年(明治22年) 日清戦争に備え、宇品港が軍港として整備される。宇品島は本土と陸続きの宇品町となる。ここには、のちに改めて水道が設けられ、暁橋がかかる

1894年(明治27年) 宇品港に運輸通信支部が開設される。

1904年(明治37年) 陸軍運輸部条例発布。宇品の「台湾陸軍補給廠」を改編し「陸軍運輸部」を設置。対岸の金輪島に造船所を建設(現在の新来島宇品どっく)

1937年(昭和12年) 第二次上海事件発生に伴い、陸軍運輸部長(中将職)のもとに第1船舶輸送司令部を編成。司令部を宇品に置く。

1940年(昭和15年) 第1船舶輸送司令部をベースに、船舶輸送司令部が臨時編成。司令部は引き続き宇品。

支部を大泊・小樽・東京・新潟・敦賀・大阪・神戸・門司・釜山・羅津・大連・高雄の12箇所に設置。

1942年(昭和17年) 戦争激化に伴い、船舶輸送司令部を船舶司令部に改編。宇品の司令部のもとに、3つの船舶輸送司令部(門司、上海、昭南)が設置される。

船舶司令部は他に船舶兵団も管理することになる。その後第4(ラバウル),第5(ダバオ)船舶輸送司令部が増設される。

1943年

2月 宇品に陸軍船舶練習部(少将職)が設置される。

8月 宇品に野戦船舶本廠(少将職)が設置される。

1944年10月 セブ島の船舶兵団司令部が宇品に移設され、教育船舶兵団司令部と改称される。

1945年(昭和20年)

1月 第7船舶輸送司令部が編成される。

5月 大本営海運総監部が新設され、全船舶を国家船舶として一括管理することになる。実務的には船舶司令官が国家指定船の統一運用をおこなう。

 

爆発時の状況

1.爆心地の状況

軍の機能は広島城周辺の中国軍管区司令部は壊滅し、司令官が被爆死する。広島駅北側の東練兵場に駐屯していた第二総軍もほぼ機能停止となる。

中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け機能停止。消防機能も壊滅していた。

宇品の船舶司令部はほぼ無傷の状態。とは言っても、朝の体操をしていた兵士はほとんどが大やけどを負っている。

爆心と宇品
   ヒロシマ新聞より転載

2.被爆後の救援・整理活動

下の絵はきのこ雲の形成過程。

被爆証言を残そう!ヒロシマ青空の会 1集原子爆弾爆発時の状況より

下の写真は

宇品から見た中心部
ヒロシマ新聞より転載。午前9時ころ、宇品の船舶練習部から中心部方面をとった写真である。おそらく2,3キロ位のところまで煙(二次火災)に包まれており、それから先は見えない。

以下はヒロシマ新聞より引用。

直後 船舶司令部は、佐伯文郎司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みる。いずれも不通のため、兵士を各方面に偵察に出す。

午前8時50分 消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣。あわせ救護、消火活動に各部隊を振り分ける。(宇品には全国から徴用された民間船が集結していた)

午前9時 被災者が船舶司令部に集まり始める。当初は被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が治療に当たる。

殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。
…火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出をおこなった。船で似島(検疫所)へ移された。

午前11時 佐伯司令官、中国地方の各基地に対し、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を発出。

午前12時 江田島・幸の浦基地の部隊(船舶練習部第十教育隊)が宇品に到着。そのまま市内に進出し救援作業に当たる(この部隊は特攻隊で、ボートで敵船に突っ込む訓練をしていた。マルレ艇を見よ)

午前12時 千田町の広島電鉄本社に指揮所を設置。負傷者の救護にあたる。宇品では対応できないと判断した司令部は、対岸の似島検疫所へ船による輸送を始める。(金輪島へも多くの負傷者が運ばれている)

午後1時 宇品地区の水道が減水。幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保。罹災者に乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給する。

午後2時 この時点までに収容した負傷者は1300人。その後も後を絶たず。

夕方 船舶教育隊(石塚隊)が紙屋町、八丁堀のあいだの屍体発掘作業。

7日、船舶司令部の佐伯司令官が「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり県庁・県防空本部を指揮下に入れる。