パナマ文書のニュースを読んでいて、ふと原発の議論を連想した。
世界経済の発展は今や途方もないメガ・キャピタル生み出した。それは今や諸国家の統制をも振り払い、世界をわがものにしている。
それはますます獣性を帯び、良識とか常識というものからかけ離れてきている。それは「巨大な反知性」とも呼ぶべきものとなっている。
貧富の差を奨励し、社会の差別を奨励し、環境破壊や核汚染を奨励し、猛烈なスピードで移動してはあちこちを破壊している。
メガ・キャピタルは、それこそが人間の自由な本性なのだと主張している。果たしてそうであろうか。
その中で人間は自由を感じているだろうか。その中で大多数の人間はますます不自由を感じているのではないか。いまや人間は、富裕層をもふくめて、メガ・キャピタルの奴隷となりつつあるのではないか。
資本というのは人間の持つエネルギーの塊である。人間活動が活発になればなるほど大きくなるが、それが人間の統制を超えて巨大なものとなった途端、それ自身の論理で暴走し始める。
原爆という人間の生み出した巨大なエネルギーが世界を破滅の危機に追いやり、平和的利用としての原発が人々の安全と環境を脅かす、これは巨大なエネルギーを人間の管理のもとに置くというタガが外れてしまったことから起きている。
しかし巨大なエネルギーを生み出すのも、それを統制のもとに置くのも人間の叡智である。
これまではエネルギーを抑え込むのに二度の世界大戦という悲惨な方法をとってきたが、それは巨大な資本のエネルギーに対抗し、統制する知性の発展の遅れによるものであった。
メガ・キャピタルを抑えるためにはメガ・インテレクトの発展が必要である。巨大な知性は巨大な資本に対抗するために巨大な資本の中から生まれてくるであろう。それは何よりも巨大な資本が生き延びるための死活的要請だからである
それはかつてマルクスが労働者階級を資本主義の墓堀人と呼んだ如く、社会集団として登場してくるだろう。それは政治集団として自らを位置づけ、政治行動を通じてメガ・キャピタルに挑んでいくだろう。私はそれをメガ・インテレクトと呼びたい。