四道将軍を書くのに、山口組のたとえを持ち出したが、書いていて意外と山口組の歴史があいまいであることに気付いた。

やはり一度は山口組年表を押さえて置いた方がいいだろう。

ウィキペディアによれば、山口組は日本最大規模の指定暴力団で、現在は六代目となる。組員数は約14,100人(構成員6,000人、準構成員数は約8,000人)

その構造は以下の如くである。

山口組本体の組員は100名程度だが、組員それぞれが自前の暴力団を抱えており、これらは「直参」(直系組長)と呼ばれる。これは、「組長の弟」を意味する6名の「舎弟」と、「組長の子供」を意味する「若衆」にランクされている。

山口組の象徴は「山菱」というマークであり、「代紋」と呼ばれる。

1915年(大正4年) 「大嶋組」傘下の山口春吉、神戸港の沖仲仕50人を束ねる「山口組」を結成。人夫供給だけでなく、浪曲興行にも進出。

山口春吉は淡路の漁師の出。1910年ころに神戸に出て労務者兼用心棒となった。倉橋組を経て1912年ころに大嶋組の傘下に入る。

1925年(大正14年) 山口春吉の実子である山口登が山口組二代目を襲名。

神戸中央卸売市場の開設。山口組が大嶋組に反乱。「死者を伴う激しい抗争の末に同卸売市場の運搬作業の独占権を得る」(ウィキペディア)

1932年(昭和7年) 山口組、正式に大嶋組から独立。

1932年 やくざの出入りで相手を刺殺。服役する。

1942年(昭和17年) 二代目組長の山口登が死亡。このあと組長不在の時代が続く。

1943年 田岡一雄が出所。神戸市湊川で山口組系田岡組を組織。

1946年(昭和21年) 三国人との闘争で名を挙げた田岡一雄が三代目組長に就任。この時点で山口組は組員33名にまで衰退。港湾荷役と神戸芸能社を柱に組織を再建。

1953年(昭和28年) 山口組若衆山本健一が鶴田浩二を襲撃。ウィスキー瓶とレンガで殴りつける。田岡は襲撃を指示したとして逮捕されるが、不起訴処分となる。
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田岡と鶴田浩二(1952年)Wikipediaより

1954年 谷崎組と新開地の縄張りをめぐって衝突。山本健一が谷崎組若頭を襲撃、重傷を負わせる。その後谷崎組は崩壊。

1957年 小松島抗争。地元のやくざの抗争に山口組が介入。組員115人を動員して小松島へ乗り込む。山口組の全国進出のきっかけとなる。

1957年 別府抗争。2ヵ月に渡り県内外の暴力団員約400人がにらみ合う。山口組系の勝利に終わり、対立組織は解散。

1959年 横浜ブルースカイ事件。これはなかなか面白い事件です。ウィキペディアをご参照ください。田岡の判断ミスから起こった事件ですが、もうすこしで山口組と稲川会の正面衝突になるところだった。

1960年 明友会事件(第一次大坂戦争)。山口組が大坂最大の暴力団「盟友会」(在日系)を制圧。

1962年 博多事件(夜桜銀次事件)。明友会事件のあと福岡に潜伏していた山口組組員「夜桜銀二」が地元やくざに殺される。山口組は戦闘員250人を福岡に送り宮本組、大島一家などを威圧する。

1962年 篠田建市、名古屋の山口組系鈴木組内広田組の組員となり、司忍を名乗る。

鳥取抗争

広島代理戦争

1963年(昭和38年) 田岡一雄、田中清玄らとともに「麻薬追放国土浄化同盟」を結成。市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開。

1964年 第一次頂上作戦。直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するが、まもなく勢いを盛り返す。

1965年(昭和40年) 山口組が日本最大のやくざ組織となる。この時点で傘下424団体、構成員は総勢9450名に達する。

1965年 田岡一雄、心筋梗塞で入院。若頭の地道行雄は山口組解散へと動く。山本健一ら若頭補佐の反対で挫折。地道は失脚する。

1975年 山口組と松田組による「第3次大阪戦争」が勃発。

1978年 田岡一雄が京都のクラブ・ベラミで松田組系大日本正義団の組員に撃たれ負傷。その後松田組は山口組による報復で、10人近い死者を出し崩壊。

1978年 田岡組長、肝臓病が進行した山本健一に引退を迫る。まもなく山本は保釈を取り消され収監される。

1981年7月 三代目田岡一雄が死去(急性心不全)。収監中の山本若頭に代わり、山本広、中西一男、竹中正久、中山勝久ら7人の幹部組長による集団体制が組まれる。

1982年2月 若頭の山本健一(初代山健組組長)が肝硬変で死亡。若頭補佐の山本広が組長代行、竹中正久が若頭となる。この時点で、2府33県の559団体が傘下に入り、構成員は1万1800人に達する。

1984年6月 若頭の竹中正久が四代目組長を襲名。中山勝正が若頭となる。田岡の妻の強い意向とされる。

6月 組長代行だった山本広は反発し、20人の組長とともに「一和会」を結成。

6月 名古屋の弘田組はいづれにもつかないまま解散。司忍がこれを引き継ぎ弘道会を立ち上げる。

1984年8月 和歌山県串本町の賭場で射殺事件。山一抗争が発生。この時点で山口組参加者は直系組長42人・総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人・総組員数6021人だった。

1985年1月 竹中正久、若頭の中山勝正、ボディーガード役の南組組長を伴い吹田市江坂の愛人宅に向かう。待ち伏せていた一和会系山広組のヒットマンにより暗殺される。この時点ですでに勢力は逆転し、山口組1万人、一和会2800人となっていた。

1985年 渡辺芳則(山健組二代目組長)が若頭代行を務める。山口組による報復が激化。300件を超える抗争事件が発生。一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人が出た。

1989年 一和会会長の山本広が引退。一和会は解散し、山本は山口組本家を訪れ詫びを入れる。山一抗争が終結。

1989年 渡辺芳則が山口組五代目を襲名。宅見勝が若頭に就任。名古屋弘道会の司忍は若頭補佐となる。

1989年 竹中組は一和会との和解に反対し、山口組を離れる。その後山竹抗争を経て崩壊。

1992年 直系組織が120団体まで拡大。

1992年 暴力団対策法が施行される。

1995年 阪神淡路大震災が発生。渡辺組長の陣頭指揮による組織ぐるみの救援活動を展開。

1997年 若頭の宅見勝、ホテルの喫茶室で山口組中野会系組員により射殺される。流れ弾に当たった歯科医師も死亡。

2004年 渡辺芳則、組織運営の全権を執行部へと委譲し組織運営の全権を執行部へと委譲。噂話としては、渡辺・宅見ラインの金権腐敗ぶりが嫌われたとされている。

2005年

5月 渡辺芳則、突然の引退表明。中部ブロック長の司が若頭に就任。司忍が渡辺に引退を迫ったという「クーデター説」が流れる。

7月  司忍が六代目を襲名。若頭も弘道会の高山清司が務める。

12月 司忍、銃刀法違反により懲役6年の実刑判決が確定。府中刑務所に収監される。

2007年

2月 東京で住吉会系との抗争が勃発(麻布戦争)

3月 山口組系水心会幹部が長崎市長を射殺。

2008年

10月 山口組、井奥会など11団体を「絶縁」する。

2011年

4月 司忍が刑期を満了し出所。これを機に関東の住吉会とも和解。工藤会と道仁会のみが山口組に対して独立を継続。

2015年

8月 山健組(井上邦雄組長)、宅見組(入江禎組長)など直系組長13人が山口組を離脱。

9月 離脱した13団体と新加入した1団体が、あらたに神戸山口組を結成。互いに相手組織の切り崩しを図る。

 

ということで、

5代目から6代目への移行の経過は今のところ、闇の中である。調べていくと、どうも殺された若頭の宅見勝という人物がキーパーソンのように思えてくる。相当頭のいい人物ではあるが、それだけに、嫌われる素質を十分すぎるほどに備えている。彼のようなやり手を前にすると、山口組は全国組織としてどうあるべきかという問題を、倫理上の問題として突き付けられるような気がしてくる。やくざに倫理をうんぬんするのも何なのだが、やはりそれがないと組織は成り立たない。

印象としては、山口組が全国組織となった以上、こうした事態がいつかは来るべきものであったのではないかと思う。

大和朝廷が、周囲に力を伸ばしていったある瞬間に、地方の声が集中的に反映される時期が来るのではないかということだ。地方は中央権力にむしられ続けるためにだけ存在するわけではない。たとえやくざといえども、取り分の公平さは実現されなければならないものだと思う。