四道将軍について

崇神天皇のときに、北陸、東海、西道、丹波(丹波、丹後、但馬)に派遣された4人の将軍を指す。(日本書紀)

将軍たちの平定ルートは4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている(ウィキペディア)

1.大彦命

孝元天皇の第1皇子で開化天皇の同母兄に当たる。娘は崇神天皇の皇后となっている。

北陸道を征服(会津まで行ったというのは眉唾)。息子の武渟川別が阿倍朝臣の祖とされる。

2.吉備津彦

孝霊天皇の皇子。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。「吉備津彦」は日本書紀による創作の可能性あり。

吉備の国を平定。

3.丹波道主命

開化天皇の子、彦坐王(あるいはその子)に与えられた官職名(古事記)

4.建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)

この人は詳細不明。古事記にのみ登場し日本書紀では武渟川別に入れ替わっている。また古事記では四道将軍の扱いは受けていない。


ということで、どうも4道将軍というあたかも軍事システムのような命名は、日本書紀の創作のような感じだ。

はっきりしているのは、当時の大和朝廷にとって四道が制圧すべき対象として意識されていたことだ。

もう一つは天皇に極めて近い二人の将軍が、軍務を仕切り征討作戦の指揮官でもあったということだ。ほかの二人は員数合わせに登場したと見た方がよい。

どうもこの大彦というのが怪しい。名前からして怪しい。彦は位階名だろうから名前は「大」だけだ。本来は「大君」という一般名ではないか。

もう一人も立派な皇子だが、名は「いさせり」となっている。

どうも大和朝廷は二重権力になっていたのではないかと想像される。そして朝廷をも含めて大彦が支配していたのではないか。


ここから先は例によって想像をたくましくするのであるが、この戦いは今の山口組を想像させるのである。

もともと山口組は神戸港の冲中仕の荒くれどもを母体にして大きくなった組織である。それが全国制覇を成し遂げて全国規模のやくざとなった。

しかし2,30年前からは名古屋の組織が大きくなって、本家を仕切るようになってしまった。そこでもともとは本家筋の神戸山口組が分裂し反抗するようになった。

そこで血を血で洗うような争いが勃発したわけだが、どうもこの名古屋山口組が大彦のイメージとダブるのである。

力は強いのだが、人を納得させるような権威はない。そこで朝廷を無理やり人質にとって、河内や生駒の本流派を挑発する、そして最後には難癖をつけて「はに・やす」一家を壊滅に追い込む。

ついで本流派のもう一つの拠点であった山城を支配下に置き、彦坐王を送り込む。「王」という位がわからないが、「彦坐王(あるいはその子)」という表現もある通り、影の薄い存在であり、大彦の手下に過ぎない。

さらに大彦は一の子分の「いさせり」を吉備まで派遣して、本流派に通じていた反大彦政権を壊滅させる、というのが筋書きではないだろうか。

不思議なのはそのあとで、なぜか大和朝廷を離れて越前に引っ込んでしまう。ここいらについては、さすがに妄想のネタが尽きた。もう少し知識を仕込まないと語れない。

ただはっきりさせておかなければならないのは、これが近畿地方のローカルな動きに過ぎないということで、そこには倭王朝も任那も視界に入ってこない。倭王朝の勢力範囲は主要には日本海沿岸にあった。大和朝廷は日本海側には出ないようにしている、とも思えるのである。