武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱は、日本書紀にも古事記にも触れられており、実在した史実であることは間違いなかろう。神武から数えて10代目の天皇の時代。一応、神武を西暦300年、一代平均10年とみて5世紀(西暦400年代)の話と想像する。

時の王朝は、九州の倭王朝の流れを汲みつつ、現地の出雲系諸部族(物部、葛城など)と連合政権を形成していたと想像する。

武埴は8代目の天皇の子とされているから、9代目の天皇の兄弟、10代天皇とは叔父・甥の関係になる。武は古事記では建の字があてられており、武人に奉られる尊称かもしれない。彦は倭王朝系の官名で皇族系を示唆する。それに出雲系の命(…のみこと)という尊称が付け加えられる。とすれば、正味の名前は「はに」家の「やす」ということになる。

母親の名が埴安媛となっているが、これは「はに・やす」の母というくらいの話だろう。この女性の出自は河内青玉繋の娘とされる。

天皇の子供は、天皇になれなければ宮廷の幹部になるか、さもなくばどこかに出なければならないわけで、おそらく河内家の方に移ったのではないかと思う。

この嫁さんがすごい人で、吾田媛(あがたひめ)というのだが、旦那を焚き付けて大和朝廷を武力で転覆しようとする。

そして、はに・やすは河内から山背(山城)方面に回り込み、吾田媛(あがたひめ)の軍勢は逢坂から直接山越えして大和に入ることになっていた。

この陰謀がばれる経過はかなり怪しいものだ。道端に“不吉な歌を歌う少女”がいて、その歌を巫女が占った結果、朝廷側将軍たちは政権転覆の陰謀を知ることになる。

どうも計画が事前に漏れていたようで、はに・やすも吾田媛も待ち構えた朝廷軍に討ち取られてしまう。

この戦争で面白いのは、はに・やすが自ら軍の先頭に立ち実戦に参加していたことで、敵の将軍も“はにやす”の腹違いの兄弟だ。はに・やすは矢にあたり倒れ、これをきっかけにはにやす軍は総崩れになったという。

この事件からわかることがいくつかある。

1.当時の大和朝廷の権力というのは何よりも軍事力であり、天皇というのは戦闘集団の長なのだということ。

2.河内には大和宮廷に嫁を送ることで恭順を示しつつも、いざとなれば皇位継承者を担いで政権を転覆しようという力と構えがあったということ。

3.大和王朝は近江から越前に至る後背地を抱えていたが、大和より西には絶対的な支配地を持っていなかったこと。勢力範囲としては結構いびつです。

4.これに対して河内の勢力は淀川流域に至る一帯を確保し、山城(巨椋池あたり?)が両者の境界であったこと、が推定される。

以上の点を確認したうえで、さらに大胆な推測をすると、

1.この時点で大和朝廷の実権を握っていたのは越前集団だということ。彼らの勢力範囲からすると、大和から越前まで進出したというより、越前集団が近江を経由して大和まで進出したと考えた方が合理的である。

これは後の継体天皇の話でも出てくるが、まず何よりも大和朝廷が熱田や伊勢に強いアフィニティを持っていることから推測される。

前にも書いたことがあるが、これは敦賀から近江に入った武力集団が長浜あたりで二手に分かれて東方グループは尾張から伊勢を制圧し、南方グループが近江から木津、そして大和入りしたと考えるとすんなり説明がつく。

2.彼らはいつ大和に入ったのか。神武が大和を攻めた時、先住者は出雲系の天孫族であった。彼らもおそらくは日本海側から大和に侵入し銅鐸人(縄文人?)を支配下におさめた。神武は結局出雲系と連合し、かなり出雲系に吸収されていった。

3.とすれば、神武に合体した出雲族とは別に、あとから越前経由で大和入りし、政権に入り込んだ集団が存在したのであろうか。つまり神武東征の後に第三の天孫系の襲来があったのだろうか。

4.それは出雲系だったのか。それとも出雲を征服しさらに東進してきた倭王朝系であったのか。しかしそれにしてはあまりにも文化的アイデンティティーの主張に乏しい。我々が何か見過ごしているのだろうか。

5.大和側が“はにやす”の陰謀を知った経過は巫女の占いである。つまりでっち上げの可能性がある。“はにやす”の側にすればとんだ言いがかりだ。
こういう“事実”もありうる。吾田媛は旦那の留守の間に本拠地を襲われて殺された。旦那は山城の方に援軍を求めて移動した。しかしそこには別の朝廷軍が待ち構えていた。つまりハサミ討ち作戦をとったのは“はにやす”側ではなく朝廷側だった。
大体、戦力に劣る反乱軍が最初からはさみ討ち作戦など取るわけない。

6.とすれば、この事件は朝廷の軍を握る将軍たちによる逆クーデターの可能性もある。ならばその将軍たち(四道将軍)とはだれか、二人はわかっている。一人ははにやすの異母兄弟大彦である。

大彦は、のちに阿部の臣の始祖となることからも分かるように、越前集団の代表でもある。彼が山城で“はにやす”に正面対決し打ち破った。(現場を仕切ったのは大彦ではなく、彦国葺で、かれは和珥臣の祖となっている。和珥は百済系と思われ、越前集団に半島系が紛れ込んでいることが想像される)

もう一人の将軍が吉備津彦である。彼が逢坂の吾田媛を襲っている。吉備と越前が組んで、大和王朝の旧主流派をやっつけるというのは極めて面白いスキームだと思う。

7.ということで、この事件は大和王朝内での権力移動を象徴する事件とも思われ、極めて興味ある事件である。つまり神武が大和に倭王朝の流れをくむ政権を立ち上げた。しかしその基盤は極めて脆弱で、実質的には神武東征以前から住み着いた出雲系が実権を握り続けた。それが神武以来100年を経て、越前系が進出し、これが吉備と手を組んで出雲系を追い出した、という筋書きが見えてくるのである。もっともこれは後で巻き返されるのであるが…
越前と吉備、渡来系が反河内連合を組んだということは、大和王朝の勢力範囲がそこまで拡大したことの裏返しの証明でもある。


私はいままで、出雲を追い出された出雲系天孫族が、近江から大和に入って纏向政権を打ち立てたのではないかと考えてきた。

これは考えを変えなければならない。最初の出雲系は丹後から山城に出て、一つは淀川水系を下り河内に勢力を築いた。そしてもう一つが木津川を渡り大和盆地の東側を南下して纏向に達したと考えるべきだろう。

これが第一波だ。彼らは少数精鋭の神武グループとは違い、「国譲り」という形で故郷を追われた植民者集団である。それがかなりの数の集団で入ってきたから、先住する縄文人(銅鐸人)を基本的には駆逐する形で大和盆地の支配者となった。

そして彼らが神武海賊集団に屈服した後、彼らと協調して大和政権を立てた。

その後、第2のグループとして敦賀から近江平野を経て大和に達した連中がいたと考える。彼らが出雲系の一派なのか、倭国由来の植民者なのか、それとも、もっと濃く新羅の流れをくむグループなのか、これが問題だ。官職名や神祇のスタイルなどをもっと詳しく分析しなければならない。