認知症徘徊事故判決のあやまり


やはりどう考えてもおかしい。たしかに家族の一員として道義的責任は感じなければならないかもしれないが、そもそも老老介護が無理だったのだとしたら、それを押し付けた側の責任が問われるのではないか。

1.それは自己責任ではないか

最近は自己責任というのがやかましく言われるが、自己責任という考えと、家族の連帯責任は考えが矛盾するのではないだろうか。

好きではないが、もし自己責任という考えを徹底するのなら、たとえ認知症だとしても人格はあり、責任を問うことは不可能ではない。

彼は死をもってその責任を償ったのであり、一件落着である。その上に家族が償う必要はない。

最近は生活保護をめぐって、家族の扶養責任が論じられる事が多い。思うのだが、「責任」という言葉が曖昧に二義的に用いられているのではないか。

逆に自己責任が部分的に担えなくなれば、それを保護する役割は社会に発生する。それは一種の社会契約である。

家族の責任は道義的な自発的なものであり、能力を越えてまでになうべき法的責任はない

2.責任の及ぶ範囲を超えているのではないか

もしこの老人が老健施設の入所者なら、間違いなく私は施設長として責任を問われる可能性がある。入所費用の中にその管理費はふくまれるのだから。

「しかし」と思う。標準的な予防措置を講じた上でそれをくぐり抜けられたら、それでも責任は問われるのだろうか。道義的には責任は無限としても、民事上の責任は限定されるのではないだろうか。

先日アメリカで家出した少年が飛行機の主脚の格納スペースに忍び込んでハワイまで飛んでいったというニュースがあった。

このような想定外のケースまで、航空会社に責任を問われても、承諾しかねる。それは分かる。(保安上の責任は別に発生するが)

3.本人の責任と家族の責任

先日、北海道では飼い犬(土佐犬)に噛まれて殺された主婦の事件があった。そもそも犬には責任は問えないのだから、当然飼い主が全面的に責任を追うべきである。

しかし人間は犬ではない。すべての人間には少なくとも「法的人格」はある。まずはそれぞれの個人が直接社会と向き合うべきだ。

未成年者の犯罪はどうだろうか。親が賠償責任を追うべきだろうか。

学生だったらどうなのだろうか。坂東国男の父親のように自殺しなければならないのか。

長いこと音沙汰のなかった息子が、どこかで犯罪を犯したとして、親には責任があるのか。

「責任」の範囲は事例ごとに具体的に見ていかなければならず、とくに法的な責任については、かなり限定的に論及されるべきだろうと思う。

4.鉄道会社は純粋な被害者なのか

しかし、我々が毎日車を運転していて、自転車が急に飛び出してきた。思わずブレーキを掛けたが、間に合わず轢いてしまった。

こういう時、ドライバーは間違いなく前方不注意で捕まえられる。おそらく可能的な凶器である自動車を運転するがゆえに、潜在的な加害者とみなされるからあろう。

そういうリスクを背負ったドライバーの一人として、私は鉄道会社を責める気にはならない。

しかし迷惑を被ったと家族に賠償を求めるのは、人の道に反していると思う。

少なくとも、それは線路への侵入を阻止し得なかった鉄道会社の「過失」と相殺すべきである。彼を殺した凶器は列車であり、故意も過失もなかったとしても、殺したのはあんた方なのだから。

少なくとも、私は轢いた子供の母親に自動車の修理代を要求しようとは思わない。

このような論点を踏まえた上で、名古屋高裁判決を見ていく必要があるだろう。(ところで、航空会社は子供の父親に賠償をもとめるのだろうか)