というわけで、気を取り直して、今度はジェームス・ミルの生い立ち。

こちらは靴屋の息子から成り上がり、聖職者の養育を受けながら、無神論者となり、やがてベンサム一家の代貸として人脈を築いていく。そしてイギリス 古典経済学の一本化に一役買う、というなかなか波乱にとんだ人生だ。どうせ自伝を読むなら、こちらのほうが面白そうだが、そういう人には自伝を書くような ヒマも、その気もない。

Web上の文献もJ.S.ミルよりはるかに少ないが、少し探してみる。

まずはウィキペディアに載った彼の肖像画、

ほとんどハゲと言っていいほどの広い額の下にどことなく落ち着きの悪そうな小顔が続いている。

J.S.ミルの年譜で(「ミル親子 年譜」と改題)簡単に紹介してあるので、それに加える形で進む。

靴屋の息子ということだが、母親はステュワート家とも繋がる良家の出、とあるがそんなことがありうるのかと思う。ウィキではそれ以上は分からない。

スコットランド長老派の信仰により育てられたが、天啓も自然宗教もともに斥ける立場をとった。ただしカルヴィニストとしての生活信条はそのまま保持された。
 

18世紀後半のスコットランドはアダム・スミス、デービッド・ヒューム、ジェームズ・ワットらを輩出し、フランスに勝るとも劣らない知的・精神的拠点となっていた。
カルビン派プロテスタントの支配するなかで、国家組織や貴族サロンに支配されない、自由で自立的な「個人」の観念が育っていた。(アーサー・ハーマン)
ヒューム以来の啓蒙主義(産業主義)は、文明の進展が自由の擁護者としての中間階級の増大をもたらすとの認識を共有していた。(フォンタナ)

エディンバラ大学を卒業。牧師となる。議員となった支援者ジョン・スチュワートに附いてロンドンに出る。哲学的急進派と呼ばれる集団を形成する一方、ジャーナリストとして不安定な生活を送る。

1808年 父ミル、「商業擁護論」を発表。「販路説」を打ち出す。これについてはフランスのセーの「経済学概論」からのコピーとする説もある。

スミスの混乱した複雑な体系から、流動資本のみを対象とする資本循環のメカニズムを抽出した。これを「販路説」として純化した。(田中秀臣
穀物騰貴により地主が大儲けすることを批判。これに同感したリカードウが父ミルに接近した。(櫻井毅

1808年 ベンサムと知り合い、その支援を受けるようになる。ベンタム崇拝者として“教義”を広める。

ベンサムは哲学的急進派との出会いを通じて、既存エリートを改革の担い手と見なす考えを放棄し、急進的な議会改革を訴えるようになる。
ベンタムは「ジェームズ・ミルは自分の弟子で,そして,リカードがジェームズ・ミルの弟子だから,リカードは自分の孫弟子だ」と語った。(櫻井毅

1809年 リカードウが最初の経済学論文「銀行券の減価の証拠となる金地金の高騰」を発表。「地金論争」が巻き起こる。

1815年 ナポレオン戦争の影響で穀物の価格が暴落。地主を中心とする議会勢力に打撃を与える。地主は穀物法を盾に価格の高値維持を主張。リカードウは自由貿易政策を進める立場から穀物法に反対。

リカードウ: ユダヤ人の証券仲買人の息子として生れ、独立したあと公債取引等で成功し、イギリスで屈指の証券業者となった。アダム・スミスの『国富論』に接し経済学に興味をもち、1810年ころから論壇に参加する。
リカードウというのは先祖がポルトガルに住んでいたためで、Ricardo を英語読みしたもの(らしい)。

1815年 穀物法が議会を通過。友人ジェームズ・ミルの強い影響の下、パンフレット『穀物の低価格が資本の利潤に及ぼす影響についての試論』をあらわす。

穀物法廃止論者で自由貿易賛成派のリカードウは、保護貿易論者のマルサスと衝突し論争となる。(ただし仲が悪かったわけではなく、リカードウは株の仲介でマルサスに儲けせてやっている)

1815年 父ミル、リカードウあて書簡で政治経済学への専心、議員としての公的活動を要請。(この辺の経過は<講演> リカードの「経済学原理」とその周辺 に詳しい)

今やあなたはご家族全部の幸福を図るに足るだけのお金を作られたのだから、この種の獲物には満足し、これからは他の仕事のために余暇を使ってほしいものです
父ミルはリカードウを“イギリスのケネー”に仕立てようとしていたと言われる。

1817年 リカードウの『経済学および課税の原理』が刊行される。

父ミルの督促: とにかく友達に手紙を送るような気持で,思いついたことをどんどんまとめて書きなさい,書いたら私に送りなさい,私がそれを整理して,うまく書き直すなり,なんなりのことをしてあげましょう。…学校教師の立場であなたに強制します。

1818年 父ミル、『英国領インド史』を出版。これを機縁とし東インド会社に就職。

市民社会一般の研究への“悪くない入門書”と自己評価。
これまで我々が知っているもっとも粗野な状態からもっとも完成された状態にいたるまでの殆どを扱い、そこでの社会秩序の諸原理と諸法則とを暴露する。

1820年 父ミル、『統治論』(An Essay on Government)を発表。主著とされる。自己利益優先の原理を前提としつつ、支配者の権力の濫用を防いで社会の多数者の物質的利益を擁護することを統治の目的とする。

略奪者の抑制が統治の目的: 
欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。
中間階級の賛美: 
1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)
2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。
2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している」
3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。
4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。
(ミルが中産階級をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく。中間「階層」として捉えていることが分かる)

1821年 父ミル、リカードウの「原理」を初心者向けに解説した「経済学要綱」を出版。古典経済派の最初の経済学教科書と言われる。

原題は Elements of Political Economy。「政治経済学の初歩」と訳しているものもある。ただしマカロッチは「あまりに抽象的な性格で、平易でもなくあまり有益でもない」と酷評し ている。理由は、経済学的な説明の中に哲学急進派としての父ミルの見解が紛れ込まされていることから来るとされる。(立川潔


1829年 父ミル、連想心理学の手法を用いた『人間精神の現象の分析』を発行。

1836年 ジェームズ・ミルが死亡。


参考文献

ジェイムズ・ ミルの初期販路説とアダム ・スミス 田中秀臣 著 早稲田経済学研究 38号(1993)

ジェイムズ・ ミルにおける中間階級と議会改革 ジェイムズ ・ ミルにおける中庸な財産と陶冶 立川 潔 著 

西洋経済古書収集ージェームズ・ミル,『経済学要綱』 稀書自慢さんのサイト