すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

なかなか本題に入れず、またも余分なことを書く。歳のせいで、大仕事に取り組むのがだんだん億劫になってくる。

今日は、「マルクスがパリノートで読んだミルの本が何だったのか」ということについて、心覚えを記しておく。

1844年か45年にマルクスが読んだミルの本はただ一冊。「経済学綱要」という本のフランス語訳である。

この本が書かれたのは1823年とある。フランス語訳がいつ行われたのかは分からない。

それが「ミル評注」のテキストとなり、「経哲手稿」の「疎外された労働」のテキストになっていくのだから、大変重要な本だということになる。

しかし、小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」 ではこの本のことには触れられていないのである。つまりJ.S.ミルにとっては大した著作ではないということなのか。


年譜をあらためて振り返ってみよう。

1823年といえば、ミルはまだ17歳。日本で言えば高校2年生だ。

ただしこの人、親父が星一徹で、激しいスパルタ教育を受け、はやくもリカードウの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』を読破している。

どうしてこういう読み方をしたか。それは父ミルの指示によるものだ。

父ミルはリカードウの親友で、まだ原稿状態の「原理」を読んだ。そして内容に感激して、ためらうリカードウを説き伏せて出版にまで持って行った、そういう人物である(出版は1817年)。

ここから先は想像だが、父ミルはリカードウを説得した情熱と同じ情熱で、刷り上がったばかりの「原理」を息子に読ませたのだろう。ひでぇ親だ。

父ミルは、リカードウを読了したミルに今度はスミスの「国富論」を読むように迫った。おそらくリカードウについての一文を息子にものさせようという魂胆だろう。

それが終わると、父ミルは息子をフランスに送り、バプティスト・セエと面会させた。セエはフランスで高名な功利主義者で、父ミルとも面識があった。当時、セエは「原理」について一定の批判があったようで、リカードウをフランスに紹介しつつ、論争もするという立場にあった。

というわけで、帰国したミルはただちに旺盛な執筆活動を開始するのだが、「経済学要綱」はおそらくそのうちの一篇に違いない。

とは言うものの、その時までに読んだ経済学の著作は数えるほどであろうから、おそらくこの論文はリカードウの解説書であったろうと思われる。前年に亡くなったリカードウの追悼の意味も含まれているだろう。そしてそれがスミスの「国富論」という経済学の王道の上にあることを論証し、ベンサムの功利主義の色合いも織り込んで、セエの批判も受け止めつつ展開されたものであろうと思われる。

父ミルから見ると、これらの糸は手に取るように明らかだ。


ここまで書いたところで、下記のページが見つかった。

稀書自慢 西洋経済古書収集 さんのページの ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版 の紹介である。

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下記の如く簡単な説明がついている。

ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版

MILL, JAMES , Elements of Political Economy , London, Printed for Baldwin, Cradock and Joy, 1821, pp.xiii+240, 8vo.

直訳すれば「政治経済学の要点」ということになる。装丁は立派だが240ページだから、中身は新書版に毛が生えた程度だ。

リカード経済学を初学者向け教科書として執筆したもの。英語で書かれた最初の経済学教科書とされる。

と解説されている。

そういうことなのだ。つまりミルのオリジナリティーはほとんど発揮されておらず、ミルの著作の中での位置は高くない。だから小沼さんはあえて取り上げなかったのかも知れない。

しかし、ミルという立場を離れて、この本を客観的に経済学史の中に位置づければ、英語で書かれた最初の経済学教科書であり、決してあだやおろそかにはできない。しかもリカードを古典経済学のチャンピオンとして押し出す上でも大きな役割を果たした。

だから出版から20年を経てフランスでも人口に膾炙され、マルクスが古典経済学の入門書として選んだのだ、ということになる。

私は1823年(17歳時)の出版と書いたが、これはパリノートの論考に書かれていたのをそのまま引用したものだった。

しかし21年というとさらに若く、わずか15歳の時の著作ということになる。恐るべきことだが、成立の実情はだいぶ違ったもののようだ。

この本の成立事情については、J・S・ミルが『自叙伝』第一章で触れている。

父ミルは息子を引き連れて毎朝に散歩するのが習わしだった。その時に、歩きながら経済学の講義をし、翌日それを文章にして提出させた。

リカードの「原理」についても同じことが行われた。父ミルは、そうやって出来上がったレポートをさらに書き直させ、レポートを蓄積した。それがこの本の素稿となった。

もしそうだとすれば、「英語で書かれた最初の経済学教科書」を作りあげたのは父ミルの功績ということになる。

父ミルの功績としては次のポイントがあげられるだろう。

1.イギリス古典経済学の正規の、最良の後継者としてリカードを掘り起こしたこと

2.それをぺティー、A.スミスにつながる正統派の嫡流としてプロモートしたこと

3.リカードの理論を経済学の標準理論として脚色・整序したこと。マルクス流にいえば俗流化させたこと

4.マルサスからベンサムへとつながる功利主義者に、ブルジョア民主主義派公認の経済理論としての承認を取り付けたこと

15歳の「天才少年」J.S. ミルは、この時点では、父ミルのしつらえた舞台で踊るパペットに過ぎない。(超高機能ではあるが)

なお、希書自慢さんは「リカード経済学の初学者向け教科書」として本書を特色づけ、以下のように説明している。

この本の章立てが示すように内容は、生産(第1章)、分配(第2章)、交換(第3章)、消費(第4章)の4分法である。

森嶋流の区分では、リカードの主著の「経済学の原理」部分が本書1、2、3章と4章の1~3節、そして「課税」の部分が本書の4章の4~17節に該当するといえようか。

ともあれ、この本の出版後20数年を経て、マルクスはそのフランス語訳を手に入れ、これをもとにイギリス古典経済を学び経済の概念を把握した。それがパリ・ノートであり、とりわけミル評注であり、貨幣論を仲立ちとした「疎外された労働」概念であった。

マルクスの評価では、ミルはリカードの理論を体系的な形で叙述した最初の人であった。しかしミルは「リカード学派の解体は彼とともに始まる」(『剰余価値学説史』と手厳しい評価を下された。それもやむを得ないことであったが、紹介者としての宿命だろうと思われる。

この説明については、まったくコメントする立場にない。