すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

ジョン・スチュアート・ミル

実は経済学・哲学手稿がまだ終わっていない。

結局、へーゲルの論理学があって、それをフォイエルバッハが批判して、マルクスがそれを受け継ぎながらヘーゲル批判をやっているうちに精神現象学まで遡ってしまい、そのうちに「ヘーゲルのほうが正しいんじゃないか」と思うようになってしまい、そんなこんなの中で書かれた手稿だから、読み解くのがとても難しい。

地の文の中でヘーゲルの主張とフォイエルバッハの批判と、マルクス自身の考えが入り混じって並んでいる。

しかも訳文がきわめて読みにくいと来ているから、「挫折するのも当然だ」といまは開き直っている。

フォイエルバッハの所論は飛ばして、とりあえずヘーゲルの精神現象学をマルクスがどう読み解いたかが知りたいのだが、そのためにはヘーゲルの精神現象学を最低のレベルでも良いので理解しなくてはならない。

ということで精神現象学の解説本を読み漁るうちに討ち死にしたというのが現状だ。

そこで今度は、そちらはいったんあきらめて、ミルの方から攻めてみたいと思う。マルクスはけっこうミルを勉強している。それにもかかわらず、ミルへの評価はケチョンケチョンだ。一体それはなぜだろうかというのが、以前から気にはなっていた。

そこでミルの勉強を始めてみた。たぶんまた挫折するだろうが…

まずは年表から

ミル(John Stuart Mill) には詳細な自伝があるようだ。これだけでも変わった人物だ。

ミルに関する論考は、Web だけでも山ほどあるが、ここでは主として小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」を参考とした。

ミルの思想はどうしても父ジェイムズ・ミルとの関係を無視して語ることはできない。そこで父ミルの立志伝から起こすことにした。

さらにミルの思想はどうしてもマルクスと関連付けなければならないし、ヨーロッパを覆った革命の波とも関連付けなければならない。そこで年表に赤字で付け加えることにした。


 

1773年 ジェイムズ・ミル(James Mill)、スコットランドに生まれる。生家は靴屋だったが、スコットランド財務判事のジョン・ステュアート卿にその才能を認められ,エディンバラ大学に学ぶ。

1802年 ジェイムズ・ミル、ロンドンに出て著述業で身を立てる。徹底した民主主義者で,富裕な人々の考え方を嫌悪していたという。

1806年 ロンドンで生まれる。父ミルはJ.S.ミルに徹底的な英才教育を施した。(ミルへの教育は,愛の教育ではなく恐怖の教育であった)

1808年 父ミル、「商業擁護論」を刊行。

1810年 父ミル、ジェレミー・ベンサムの知遇を得、ベンサム邸のとなりに寄寓するようになる。

1817年 父ミル、10年を費やした「英領インド史」を刊行。

1817年 デイヴィド・リカードウ、『経済学および課税の原理』を出版。出版にあたっては父ミルの強い勧めがあったとされる。

1818年 マルクスが誕生

1819年 ミル(13歳)、リカードウの『原理』を読む。引き続きスミスの『国富論』に着手。

1820年 ミル、1年間にわたりフランスに留学。父ミルの友人セイ(Jean Baptist Say, 1767-1832)の家にもしばらく滞在。また社会主義者のサン・シモンとも面会している。

1823年 ミル、東インド会社に就職。

1824年 ベンサムの出資により「哲学的急進派」の機関誌『ウェストミンスター・レヴュー』が創刊される。功利主義と民主主義に基づく議会改革運動。

「哲学的急進派」の理論的基礎の一つがマルサスの人口原理である。ミルは誌上で人口制限政策を主張した。

1826年 ミル(20歳)、ベンサム主義に対する深刻な懐疑を抱く。「幸福は目的ではなく、何かの目的を追求する中に見出される」と考えるようになる。

ミルはワーズワースの詩を読んでロマン主義に傾斜。幸福-感情に彩られた思想の状態を会得したとされる。

1833年 ベンサムの死後1年を機に「ベンサムの哲学」を発表。

ベンサムは「人類は幸福衝動という刺激によって支配されている」と考えた。しかしそれは、実際に人類を動かしている多様な刺激の一部にすぎない。
またベンサムは「その目的のためには冷酷で思慮深い計算家である」と考えている。それは人類が実際にそうであるよりも、はるかに誇張されている。

1833年 ジョン・テイラー夫人のハリエットと恋愛関係(不倫?)に陥る。半公認の三角関係は1849年まで続く。

1833年 ミル、『ジュリスト』誌上に「公共財団と教会財産」を発表。社会的害悪の主要な源泉は,無知と教養の欠如であるとし、政府による教育の充実を提唱する。

1842年 マルクス、ライン地方の『ライン新聞』に参加。革命家としての生涯に踏み出す。

1843年 「論理学体系」(A System of Logic)を発表。帰納法によって発見された経験法則を、再度現象の予測に適用して、法則の真理性を確認するという逆演繹法を確立した。

1844年 Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, を発表。マルクスが読んだのはこの本か?

1848年 マルクス、「共産党宣言」を発表。フランスで二月革命、次いでドイツで三月革命。

1849年 ロンドンに入り以後40年をロンドンで亡命者として暮らす。

1848年 「経済学原理」を発表。正式のタイトルは「政治経済学の諸原理」(The Principles of Political Economy: with some of their applications to social philosophy)である。

リカード以来の古典派経済学のフレームワークに従い、「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書く。
自由放任政策を支持する一方、ロバート・オウエンなどの影響を受けて社会主義的な色合いを持つ。これは折衷主義として、マルクスの激しい批判にさらされる。

1850年 雑誌に「黒人問題」を寄稿。

1851年 ミル、ハリエットと結婚。逆に母や弟妹とは不和になり、二人で別居することになる。

1858年 長年勤めた東インド会社が廃止となる。退社を機に夫婦で南仏旅行。旅行中にハリエットが急逝。

1859年 「自由論」(On Liberty)を発表。(これについては別途検討)

多数者の専制批判: ①たった一人の反対意見が真理かもしれない。②支配的意見は反対意見との論争によって、その合理的根拠が理解できる。③反対意見の中にも真理の一部分が含まれている(常にではないが)

1861年 ミル、『代議制統治論』を公刊。下層階級が選挙権をもつことに反対。教養人に複数投票権を与えることを主張する。

1863年 「功利主義」(Utilitarianism)を発表。

1864年 第一インターナショナル(国際労働者協会)結成。マルクスが指導者となる。

1865年 ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員となる。約4年間の議員生活を送る。ミルは、労働者階級の選挙権、女性参政権を国会に提案。

政治的ポジションは急進的なリベラルであった。アイルランドの負担軽減、婦人参政権、普通選挙制などを主張。ジャマイカ事件で黒人反乱を擁護した。

1866年 資本論第一巻が発行される。

1869年 「女性の解放」(The Subjection of Women)を発表。

1870年 ミル、土地保有改革協会を設立。資本主義的な土地改革を打ち出す。国営・公営農業については認めず。

1871年 普仏戦争→パリコミューン。マルクスが「フランスにおける内乱」を執筆。

1873年 滞在中の南フランスで病死。

1873年 義娘ヘレン・テイラーにより「ミル自伝」が発表される。


ということで、ミルの人となりがほんわかと見えてきた。

1.まず驚くのは、父ミルの広範な人脈である。マルクスが資本論草稿の中で苦闘した相手の名前が、綺羅星のごとく並ぶ。

彼らは一つの星雲を形成していたのだ。そして、学会では進歩派として位置づけられていたのだ。そして父ミルが、かなりその接着剤の役割をなしていたようだ。

2.ミルの関心領域はマルクスのそれと著しく近接している。おそらくマルクスはイギリス滞在中つねにミルを意識していたはずだ。にも関わらず、マルクスは経哲手稿・ミル評注以降徹底的に無視している。まともな理論家として扱っていない。

 3.マルクス主義の分野では、ミルを折衷主義者とするレッテル貼りがもっぱらである。それには二つ理由がありそうだ。ひとつは彼自身がベンサムとワズワースとカントのアマルガムであるということ、もう一つはそれれを融合して新たな思想の地平を作るに至ってはいないということだ。

4.おそらくそれには理由がある。父ミルと違い、彼は党派に属さず孤高を貫いている。それではやはり結局は、人畜無害な評論家にしかなれない。しかしそのことと、彼の政治・経済理論が無力であるかどうかは別の話である。

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