六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。