我々が「自らの死」を哲学として考える場合、老化による自然死と、老化とともに発生するさまざまの病気による死亡とを分けて考えなければなりません。

いくら年を取ったとしても、病気で死にたくはありません。やはり死というのはろうそくの蝋が最後まで燃え尽きて、ふっと火が消えるような死でありたいものです。

これまで認知症は老化による死と混同されてきました。しかしだんだんと、それが病気であることが認識されるようになってきました。

だから認知症は克服されなければならないし、人類はすでにその一歩を踏み出しつつあります。

もう一つの混同があります。

それは患者本人をどう対応していくかという問題ではなく、家族がそれにどう対応していくかという問題意識が先行していることです。

私はこれも一種の病気、社会病理現象だろうと思います。率直に言えば、みんなグループホームか老人ホームに入ってしまえば、この問題は解決してしまうのです。

ここのところは、かなり慎重な物言いをしなければならないところですから、できるだけ思慮深く話したいとは思いますが…

まず皆さんに心から納得してもらいたいのは、認知症は脳の病気だということです、そして脳の器質的な病理的変化の結果、精神異常をきたす病気だということです。

だから基本的な戦略は病理的変化を防ぎ、できれば治すことです。そして器質的病変の結果もたらされる精神異常をコントロールし、それなりに社会適応させることです。

そのためには専門的知識と技量が必要です。肺炎や心不全になったら入院が必要なのと同じように、認知症が進行しそのために精神異常が出現したら、自宅で管理するのはやめて専門施設にゆだねるべきなのです。

ここから先はやや乱暴な議論かもしれませんが、徘徊する認知症は施設に入れるべきだろうと思います。それは幻覚・幻聴が出現した統合失調の患者を措置入院させるのと同じです。

なぜならそれは病気であり、専門治療が必要であると同時に、それが病気でありきちっとした治療管理の下でコントロール可能となるからです。

端的に言って、今の日本では「在宅介護こそベスト」というイデオロギーが押し付けられています。よしんばそれが正しいとして、徘徊老人の管理まで「在宅」の範疇に突っ込むのは、医学的に見れば間違いです。

統合失調の患者がうわごとを叫びながら刃物を振りかざすのを、「在宅ベスト」なんだから在宅で見ろというのと同じです。

哲学的判断より、まずは医学的判断です。早期対応が必要です。

なぜそれをためらうのか、それこそ政府やメディアの「自己責任・自助努力」キャンペーンのためです。「善良な市民」はそれをまともに受け止めて真剣に考え込んでしまうのです。

戦時中、若者はほかの選択なしに死を選ばされました。それを運命として受け入れるとき、どう生きるのかということで、三木清がより合理的な、その故に、より屈折した「哲学」を展開しました。

私は今度の線路内侵入・轢死事件も本当の責任者は、「在宅ベスト」論の主唱者だろうと思います。

家族が責任を問われるとしたら、それは「どうしてもっと早く専門施設に入れなかったのか」ということであり、「頑張りが足りなかった」ことでも、「ちょっと居眠りをしてしまった」ことでもありません。そして誰よりも責任を問われるべきは、患者を強制的にでも収容させなかった行政の責任だろうと思います。

ただ2007年の時点でそこまで言えたかという医学の側の問題は残るので、決めつけはできませんが。

結論

認知症問題を哲学的に考えるのはやめよう。すくなくともその前にやるべきことがいくつかある。